六波羅の極楽寺時茂から届いた三別抄の叛乱の知らせは、文永八年が明けたばかりの幕府に、波風を立て始めている。

最初に、和議を評定の場で表明したのは他ならぬ名越時章であった。

「いきなり戦をするという無法もありますまい」

というのである。

日頃は寡黙な時章が珍しく饒舌になり、

「犬でもいきなりの喧嘩はいたさぬものにございます。いきなりの戦をするとはただ歩く犬を闇雲に棒で殴るがごとき、無体な話にございましょう」

見事に筋の通った理窟なのだが、

「では名越どのは、合戦を考えておられる方々を犬とお考えで?」

平頼綱が悪意に満ち満ちた揚げ足を取ると、

「ものの喩えも、そちは分からぬようだな」

と時章はいい、憤然と中座してしまったことがあった。

これを聞いておさまらないのが弟の名越教時で、その話を聞くや、

「馬を引けっ!」

といい、経師ヶ谷の頼綱の屋敷に乗り込んで、

「われこそは名越教時、平頼綱を出せえっ!」

と門前で怒鳴り散らし、ひと悶着起こすというトラブルまで発生した。

そのあとだが時章が教時を呼び出し、

「さようなことはするものではない」

と時章は、この癇癪持ちの弟を叱責している。

いっぽう。

強硬に主戦の論をとなえたのは、北条一門で最も年長者であった、佐介時盛である。

系図でいうと、北条政子の甥に当たる。

初代頼朝将軍が亡くなる二年前の建久八年の生まれで、十八歳で承久の乱に参戦し六波羅探題も勤めあげ、息子に先立たれ出家、すでに第一線は退いているが、今や齢七十四ながら、矍鑠としている。

ついでながら、北条政村のいとこでもある。

「異国に侮られたとあっては、われら鎌倉武士の面目が立ち申さぬ」

一門の最長老だけに誰にも止められず、頼綱あたりは佐介時盛にすれば、鼻たれ小僧扱いでしかない。

「わがおば上の政子どのが見たらば、この体たらくを何と仰せであろう」

としたたかに放言するのだから、政子の兄の義時から数えて玄孫の執権時宗なぞ、もはや抗弁する余地もない。

時盛にすれば和平論なぞ、話にならぬといった様子である。

これに意外に同調したのは金沢実時である。

「まず文言をご覧ぜよ」

実時が出したのは国書の写しである。

「この文を見ると」

と指した部分は、

「猶予に及べば兵を用いるに至る。それ、だれぞ好むところならん。王はこれを図れ」

とある。

「この結びに不宣、すなわち意を尽くさずと友に宛て書く言葉が遣われておりまするが」

と実時は、

「よく見るとわかるのだが、日本国王の文字が一段、下がっておりまする」

これは暗に従えという証にございます──と、実時は説いた。

「古来よりかの国は自らを華とし、周りを野蛮な属州と見なしておりまする」

さような見かたをする国とは、戦をするべきかと心得まする、と実時は自説を結んだ。

時宗は上段の座で腕を組み、瞑目したままである。

そんなとき…。

鎌倉の市中で騒ぎが起きている。

いわゆる、

「龍ノ口の法難」

と呼ばれる事案で、日蓮を頼綱が処刑しようとしたのである。

が。

処刑の直前に前年の暮れに前の関白二条良実の死去があり、恩赦が行われ死罪が減ぜられた。

さらに。

先々代の執権であった北条長時の嫡男の赤橋義宗が、六波羅探題北方となり上洛となっている。

これにより。

処刑は延ばされ、日蓮は佐渡への流罪…と決まったのである。

話が少し前後する。

例の日蓮の龍ノ口の法難と前後する時期、六波羅は唐突な訃報で騒然とし始めていた。

極楽寺時茂が急死したのである。

酒宴の場で時茂は飲み慣れない酒を珍しく浴びるほど飲み、その場で倒れたのであるが、

「まるで自棄酒のようであった」

といい、現代でいう急性のアルコール中毒であろうと類推される。

が。

問題は没後であった。

極楽寺時茂は十六年の長きにわたり六波羅探題として朝幕の間を周旋し、

──京の北条は六波羅の北方でもっている。

とまで喧伝された探題でもある。

それだけに、後任の選定は急務であった。

執権北条時宗は先々代執権の北条長時(時茂の兄)の子の赤橋義宗を後任とし、急ぎ京へと向かわせた。

さらに。

時宗は若い赤橋義宗の補佐を、二階堂行藤と指名してきたのである。

「行藤どのは朝廷とゆかりが深く、祖父の代から評定衆も出しておる」

探題の補佐にはうってつけである、というのが時宗のビジョンである。

これに対し。

「赤橋どのなら輔佐はいらぬはず」

しかもいるなら北条一門から出るのが道理のはず、といって、書面を以て固辞した。

しかし。

時宗はひかない。

安達泰盛の弟の安達頼景を使いに立て、行藤の説得にかかったのである。

そこから。

毎日のように安達頼景が、寺参りよろしく、朝から晩まで説得にやってくるのである。

はじめは頼景ひとりだったのだが、何かを思い付いたのか、頼景は公卿とともに日替わりで来るようになった。

日頃から親しい冷泉為相や一条家経、さらには為家卿まで来ている。

(なんとも執権どのの情の強いことよ)

行藤は嘆息した。

中でも家経の父の一条実経が来たときには、

「関白どのまでわざわざお越しになられるとは」

と洛中がちょっとした騒ぎになったほどであった。

これにはさすがの行藤も根負けしたらしく、

「われらは世の荒波に巻かれてゆくやも知れぬぞ」

と藤子にだけ、胸中をもらしている。

赤橋義宗が六波羅に到着すると、行藤は出迎えに立った。

「このたびは着任おめでとうございます」

鎌倉育ちの義宗は、行藤については公卿と付き合いの広い御家人というぐらいの認識しかなかったが、

「六波羅には北方と南方がおわします」

と南方の北条時輔のことも立て、

「ご挨拶に赴かれませ」

と丁寧な提言もする。

(意外に使える、と実時どのが仰せられていたのは、こういうことか)

義宗は妙に納得した。

後日それを行藤にいうと思わず行藤は噴き出してしまい、

「なるほど金沢どのらしい物言いかな」

と行藤は、気にする様子もなく大笑いしたのであった。

明るい行藤の様相に義宗は安堵したのだが、

「執権どのはいささか我の強きところがございます」

どうやら全国を同じ考えでおまとめになられるものかと…と、時宗の意思を見抜いたらしく、

「近々、調練でもなされませ」

と義宗に進言している。

これとは入れ違いに、極楽寺時茂の書状が幕府に着いたのは、義宗上洛の直後である。

内容はというと、

「南方(時輔)どののこと国書返牒の件、北方に諮り申さず、鎌倉へ自由がましく送らんと致し、南北の不和を醸し云々」

となっている。

つまり勝手に時輔が朝廷の意向を、幕府の断りづらいところから図ろうとした…という解釈になったのである。

極楽寺時茂の死去からようやく落ち着きを取り戻した文永八年九月、博多の武藤資能からの早馬が六波羅へ再び到達した。

「蒙古の使節および家来衆およそ百人、今津の浜より博多まで到達との由」

着任したばかりの六波羅探題の赤橋義宗は、

(これでは極楽寺のおじ上でも身がもたぬ)

と空を仰いだ。

使節は正使の趙良弼、以下正副両本の国書を携えており、武藤資能は副本を預かったあと、すぐに六波羅へ向け回させた、という。

義宗は行藤を呼んだ。

「極楽寺のおじ上はいかに振る舞ったのだ?」

「時茂どのは中身を改め、南北の探題での談判ののち鎌倉へ取り次いでおりました」

「ではわしは改めぬぞ」

「南方へは、いかがなされまするか?」

「あとからわしが話すゆえ検分は無用じゃ」

「…御意」

行藤は心中疑問がわいたが義宗の指示そのまま通りに動いた。

翌日博多から国書の副本が来ると、

「そのまま鎌倉へ別の早馬を出すゆえ、しばし貴殿は休まれよ」

と使者をねぎらう粥を振る舞い、行藤と義宗の書状を添え鎌倉へ別の早馬で進発させた。

時輔が事実を知ったのは、早馬が近江の逢坂ノ関を越したあとである。

二階堂屋敷にやってきた時輔は行藤の顔を見るなり、

「どういうことじゃ!」

とすでに、目をつり上げている。

「ご無礼とは思われましたが、なにぶん探題どのの命にございますれば」

どうしようもなかった、と素直に行藤は詫びた。

「それと鎌倉からの噂だが、周りをつけ回っておる輩があるらしい」

何か知らぬか、と時輔は問い詰めてきた。

「はて…前に実時どのから姪のかわいい婿どのが案じられるゆえ、ときおり文で知らせよとは申し付けられましたが」

この行藤はつけ回ってなぞおりませぬゆえ、あとは分かりませぬ──と、いつものアッケラカンとした調子で答えた。

「だいいちこの行藤はこのように時輔どのと直に話せますゆえ、つけ回る必要がございますまい」

とたんに時輔は憑物が落ちたような顔をし、

「…それもそうだな」

と腑に落ちたようであった。

「それより時輔どの」

跡取りの時朝どのに縁談がございますぞ、と行藤はにこやかな顔つきになった。

「相手は公卿の娘御ゆえ、格式としては申し分なかろうかと思うが」

思えば行藤は思ったことを思ったまま、分からないものは分からないと話す男であることを時輔は、思い出したらしい。

「わざわざ縁組の話まで用意していただき、かたじけなく存ずる」

と時輔は非礼を詫び、おとなしく帰って行ったのであった。

几帳のそばで控えていた藤子は、

「縁組の話なぞ、どこから来たのでございますか?」

と行藤に問うてみた。

「あれはな、作り話じゃ」

「…えっ!?」

「あの御仁は味方がおらぬゆえ孤独なのだ」

あとからしかるべき養女を二階堂の娘として嫁がせれば面目も立とう──と行藤はいう。

「それだけ武士は、面倒がかかるのだ」

行藤は藤子にだけ、身も蓋もない本心を明かすことがある。

鎌倉へ着いた国書は、義宗と行藤の書状から手付かずであることが時宗にも察知せられた。

寄合の席で封は切られた。

開けると、国書の内容は前と変わっていない。

「いかがなされまするか」

控えている頼綱がいった。

「…これはまるで侮辱ではないか」

と弟の、北条宗政はいう。

「兄上はいかがなされまするか」

時宗は押し黙ったままである。

「お下知を」

「…やはり、戦わねばなるまい」

「兄上、ようやく腹が据わりましたか」

「いや」

はじめから決めておったのだ、と時宗はいい、

「しかしその前にやらねばならぬことがあり、そこの踏ん切りが、今までつかなんだだけじゃ」

「と、申すのは…?」

宗政はキョトンとした。

「頼綱、鎌倉と京で動ける手勢はいかほどある」

「ざっと数百騎はあろうかと」

頼綱が答えた。

「ならばよい」

この日から、鎌倉では少し騒々しくなるような予感が流れていったのはいうまでもない。