呼び出し音の向こうに居るはずのない浩太が
決して電話に出る事はないと知りながら、
私の心は錯覚と現実の間を何度も何度も行ったり来たりしていた。
この番号にかけることなど二度とないと諦めていたのに。
廊下に居ても感じ取れる病室の中の慌ただしさが、
私を恐怖で包み込んでいた。
「もしもし」
やっと出た母親は
「由香ちゃん、何かあった?」
と声が震えていた。
その時、病室の中から出て来た看護士が
「もう大丈夫ですよ。
驚いたでしょう。」
と私に声をかけた。
「あ、お母さん
すみません。
大丈夫だって、今看護士さんが処置してくれました。
私話しかけてたら、急にうなり出して…
驚かせてすみません。」
「そう、良かった。
由香ちゃんごめんね。
由香ちゃんが話しかけてくれたから、
あの子、何か言おうとしたのかしら?
本当に由香ちゃんの声が聞こえているのかもしれないわね。
そう…
由香ちゃん、もうすぐ戻るから浩太のことお願いね。」
自分自身に言い聞かせるように、
電話の向こう側からか細い声でそう言った。
「由香ちゃん」
病室から出て来た北村隆子が
「彼に話しかけてたの?」
と私に聞いた。
「はい。
北村さんが聞こえてるって言った通り、
私もそう信じてるんです。
そしたら急に苦しそうになって…」
「そう。
驚いたでしょう。
でも、ちゃんと聞こえているんじゃない?
由香ちゃんのこと、分かってるんじゃない?
すごいじゃない。」
ポンポンと肩を叩いて、優しく微笑みながら北村隆子は通り過ぎた。
気休めでも、なぐさめでも、
その言葉は魂を揺さぶる。
生きることを選ばされた者だから言える命の危うさを、
そこから居なくならないようにつなぎ止める方法を、
そしてそれを導き出す道を、
何も知らない私に誰か教えてはくれないだろうか。
ふと誰かに見られている気がして廊下の先に目をやると、
看護士に頭を下げながら何かを渡す親子が見えた。
あ…
もしかしたら…
私は立ち上がり、一歩ずつゆっくりとそこへ向かって歩き出した。
母親らしい女性の後ろでうなだれる少年は、
私の姿を見つけて慌ててもっと後ろに隠れた。
その時、北村隆子が私を呼んだ。
「由香ちゃん、待って。
行かない方がいいわ。」
「北村さん
もしかしたらあの子、事故の時の…」
「慌てちゃだめ。
お母さんが戻ったらお話するから。
今は行かない方がいいと思う。
由香ちゃん、由香ちゃんだけじゃなく
みんな苦しんでいるのよ。」
もう一度 廊下の先を見た時、
看護士に何かを渡しながら腰をかがめて何度も頭を下げるその女性の後ろで、
その少年は肩を揺らして泣いていた。
ぼうっとした頭で、なぜかその少年の顔が、
浩太とだぶって見えた。


