それ以降、矢野は口を開かなかった。
カップの中に残ったコーヒーをずっと眺めている矢野に戸惑いながら真里は立ち上がった。

「すいませんでした。急に付き合わせてしまって」
「あ。気にしないでください・・・」
「それでは、私はまだ仕事がありますので」
「そうですね」
矢野も立ち上がると、二人で会計を済ませ店を出た。

「それでは。これで」
「あ・・・!」
一礼して背中を向ける矢野の腕を真里は掴んでいた。

「・・・・どうしました?」
「すいません…あの!世の中悪いことばかりじゃないと思います」
それだけ言うと、真里は急いで手を離した。
しかし、真里が離れたと思ったのは一瞬だけだった。

次の瞬間には真里の肩の上に矢野の頭があった。

「なら、それが今なのかもしれません」

消えそうな声でそう言った矢野は真里を抱きしめた。
驚いた真里はやっとのことで矢野の名前を呼ぶと、矢野はすぐに離れてしまった。
「すいません。驚かせましたね」
「いえ。・・・その」
「これで十分です」
矢野は微笑むと踵を返した。

もう一度名前を呼ばれても、振り返ることは無かった。