水沢は一時間より少し早くに来た。
「急にすまなかったな」
「いえ。大丈夫ですけど。・・・どうかされました?」
水沢は矢野が生徒のお手本の為に書いた字を眺めた。

「私の名前を書いてくれないか?」
「先生の名前を?」
「そうだ。別に本気で書かなくていい。一枚だけだ」
「いいですけど・・・」
いまいち納得できない矢野に水沢は意味深な笑みを返すだけだった。

「少し待っていてください」
そう言うと、矢野はテキパキと準備を始めた。
下敷きの上に半紙を置き、硯の中に墨を入れる。
半紙の正面に座ると、筆に墨を染み込ませた。

一息つき、半紙の上に筆を走らせる。
滑らかな動きで、伊秀という文字を書き上げた。

「・・・・なるほど。キミの言った通りだな」
出来上がった字を見て、水沢はそう言った。

「私はキミを勘違いしていたらしい。キミの字は凛として、その芯に力強さがある。そういう字だと思っていた。・・・けれど本当は。静かに、深い憎しみを溜め込んでいるのだな」

筆を置く音がやけに大きく響いた。


「字は嘘をつかない。キミが教えてもらったとおりだな。そのある人に・・・いや、キミの実の父親と言った方がいいかな」
「・・・・」

矢野は静かに水沢のほうを向いた。
「誰から聞いたのですか?」
「野田とかいう刑事だよ」
「なるほど・・・・」
三木の忠告をもっとちゃんと聞いておけば良かったのかもしれない。

「キミの実の父親は十三年前に他界した書道家、姫山竹苑。キミは、姫山尋。なんだろ?」
真っ直ぐに視線を送る水沢に、矢野は正直に答えた。

「雅号は竹苑。本名は正。それが僕の実の父親です」