十八年前の冬。
「あの部屋は入っちゃ駄目よ。邪魔になっちゃうから」
そう母に言われた部屋の前に立った。

ドアノブに手を伸ばすが、触れる前に止まってしまう。
ドアを開いたら間違いなく怒られるだろう。拳骨は嫌だ。

しかし、このドアの向こうがどうしても気になった。
どうして父はこの部屋に篭ってばかりなのか。
どうして一緒にキャッチボールをしてくれないのか。その理由を知りたかった。
「・・・よし」
意を決し。ドアを開けた。

自分の重いとは逆に、簡単に動くドア。
その向こうには、やはり父親の姿が見えた。
背を向けてしゃがんでいる。
初め、本当に自分の父なのかと疑ってしまった。

父は無言で右腕を挙げた。
一瞬、溜めたかと思うと、まっすぐに降ろした。

・・・鳥肌が立った。

滑らかな音に比例して踊る父の腕。
その背中は、普段は見ないような活気に溢れていた。

「すごい・・・」
思わず呟いたとき、動きが止まった。
父は姿勢を正すとこちらを向いた。

「ご、ごめんなさい!」
怒られる前に逃げようとするが、呼び止められてあえなく失敗。
素直に父の前に立つと、父は先ほどまで自分がずっと向かっていたものを指差した。
「どうかな?」
それは白い紙に、黒く大きく書かれた字だった。

「すごい!これお父さんがやったの?」
「そうだよ。書道っていうんだ。尋もやってみるかい?」
「やる!」

父は笑った。
「よし。じゃあ座って、これを持って」
そう言って右手に持たせたものを筆と呼んだ。
「肘は立てて。背筋伸ばして・・・」
背中に父の体温を感じながら、半紙の上に字を書いていく。


矢野が初めて墨で字を書いた瞬間だった。