涼一の母、雅恵は体の線が細く、華奢な女性だ。
今でも少女のような初々しさを湛えた笑顔に出会うと
多くの男性が目を見張った。
 アーモンド形のくっきりした瞳に、すっきりと通った鼻筋、
そして大理石のような肌の透明感。
雅恵は、美女という言葉を絵にかいたような女性だった。

 その美貌を受け継いだ涼一が微笑めば、
女生徒はおろか男子生徒ですら笑顔になった。
 しかも涼一の性格は、気性が激しい分、気さくで男らしくさっぱりとした
父の性格をそっくりそのまま受け継いでいたので、友人も多く、
学園では一目も二目も置かれる人気者だった。
 おまけに運動神経も抜群で、
小中を通してサッカー部に在籍していた経歴もある。
ポジションは攻撃的な性格を反映してフォワード。
 父さえ亡くならなければ、サッカーだけは今でも続けていたかもしれないと、
涼一本人も思うほどのめりこんでいたものだった。
 
 そんなわけで大会が近くなると多くの運動部から声をかけられる涼一だが、
正直、サッカー部の申し出には心がぐらつくこともある。
けれどもその度に、十四歳のあの日のジーさんの言葉を思い出しては、
シェフとしての自分に喝をいれてきた。

「こんな場末のレストランで料理とも言えない料理を出して…」

 場末でもいい、高校生相手のお気軽レストランでもいい。
とにかく一日でも早く、
あのじーさんの援助なしで立ち行くレストランをつくりたい。
そして家族を、自分の手で守りたい。
その思いだけで涼一はこの三年間をつっぱしてっきたようなものだった。

「ただいま!」

 カランコロンとドアベルの音を響かせて、
涼一が勢いよく「サボテン」のドアを開けると、
母と弟の正志がリンゴをむいている最中だった。

「兄ちゃん、ほら、ウサギリンゴこんなにいっぱいできたよ!」

 正志は得意げに大皿に乗った三十個ほどのウサギリンゴを指差した。
「おっ正志、上手くなったじゃん。大丈夫か?
この前みたいに指切ったりしてないか?」
 四歳違いの弟の正志は、最近、厨房の手伝いをしたがるようになった。
最初は皿拭きから始めて、皿洗いを経て、
今では包丁を握ってのリンゴ細工をまかせている。
もちろん母の雅恵が一緒にいる時だけというのが条件だ。
それでも正志は、尊敬する兄の片腕にでもなった気分でいるらしく、
いつもうれしげにウサギリンゴを披露する。

「母ちゃん、俺、服着がえてくっから」
 そう叫ぶと、涼一はレストランの奥の扉を開こうとした。その時だ。
母の雅恵がか細い声でこう言った。
「涼一、今日、担任の上田先生からお電話いただいたのよ」
 母親の言葉に、正直うんざりしながら涼一は渋々振り向いた。
「母ちゃん、その話なら、こないだもしただろ。
俺は大学には行かないの。第一成績だって中の上くらいだしさ。
無理してまで大学行くほどのことないんだってば」
「お金のことなら気にしなくていいのよ。おじい様が出してくださるはずだから」

 涼一は思う。
母親という生き物は子供のことを心配するためだけに生きているん
じゃないだろうかと。
 特に雅恵は、ただでさえか細い神経をしている上に、
まだ高校生の涼一がレストランの事実上のオーナーシェフであるという
現実に負い目を感じていたらしく、何度かじーさんの紹介した超一流の
シェフを店に招こうとしたものだった。
涼一はその度に、必死で母親を説得せねばならなかった。

「母ちゃん、それじゃ、父ちゃんの味が死んじまうよ。
父ちゃんの味でなかったらこの『サボテン』そのものの
存在意義がなくなっちまうじゃんかよ」
「でも、まだ高校生のあんたを働かせるなんて…」

 いつも繰り返されるその会話に、眩暈を感じながら涼一は、母親に言い含める。
自分が父ちゃんを誇りに思っていること、その味を守ることが自分の夢だということ、
だからこそ、大学には行かずに、調理師専門学校に行きたいということ。 
「とにかく、この不景気な世の中で、
大学出たからって安定した生活ができるってわけじゃないんだよ。
母ちゃん。俺くらいよ、クラスで一番進路がはっきりしてる奴って。
皆、スッゲー羨ましがられるもん。就職先、決まってっていいなーつって」
「そりゃそうだけど」
 雅恵は血管まで透けそうな青白い頬を曇らせながら、渋々同意する。
そんな二人のやり取りを正志が不安げに見上げている。
母親から繊細な心と体を受け継いだ正志は,ちょっとしたことでも熱を出す。
喘息の気もあるので涼一は、弟の前ではなるだけ負の感情を見せないように心掛けていた。
けれど、事、「サボテンの経営」と「進学」の話題になるとついつい感情が表に出てしまう。雅恵の後ろで糸をだぐるじーさんの姿が頭をよぎるからだ。
(あーあ、俺って、ホント難儀!)
 涼一はそう思いながら、心の奥で十数えた。
笑え。笑え。笑え。そう自分に言い聞かせると、
いつものように作り笑いが浮かんでくる。
どこから見ても幸せそうな、ごく自然な笑顔が…。
そして涼一は朗らかな声でこう言うのだ。
「とにかく俺、着替えてくるわ。もう放課後ランチの時間だし」