じーさんはまるで値踏みでもするように「サボテン」のキッチンと
客席をながめまわしていた。
その態度があまりにも人を小馬鹿にしているようで、
涼一はひどくムカついた。
今でこそ客商売が板について「スマイル王子」の異名を持つ涼一だが、
中学生時代は何かとブチ切れやすい性質だった彼は、その場でじーさんに
塩でもぶっかけてやりたい気分でいたし、実際に涼一の右手は
キッチンの塩つぼに伸びていた。

 その時だった。
涼一は十四年の人生で一番見たくない光景を目の当たりにしたのだった。
「お父様!来てくださったの!」
母親の雅恵が、これまでにない甘えた声で、
そのいけすかないじーさんに抱きついていったのだ!
涼一はその瞬間に理解した。
 あの噂のクソジジイが遂に現われたのだと。
「雅恵、やつれたな。こんな貧乏レストランでウエイトレスまでさせられて、
もともと病弱なお前が下働きなんて、考えただけでぞっとする。
この十五年間陰で見守ってきたがあの男がいなくなった今、
こんなレストランはすぐにでもたたんで、
わしの家に帰って来い。子供たちの面倒も、私がみる。」

 そーいってじーさんが勝手なことをくっちゃべっている間、
雅恵は涙を流しながら、父親の腕の中で素直に甘えていたが、
店のことを言われた瞬間、電気ではじかれたように、
父親の腕を振りほどいて叫んだ。
「それは嫌、それは駄目よ。お父様!
このお店はあの人とあたしの大切な思い出の場所なの。
それを失うなんて私には耐えられない。耐えられないのよ。お父様!」

「だが、この店は負債まみれでもう破産するしかないだろう。
第一誰が料理をつくる?シェフを雇う金もないだろうに、
まぁ私がこの店を買い取れば、話は別だが…」
「でも、お父様、わたしこのお店をなくしたら、
何を心の支えにしたらいいのかわからないわ。
この店は私自身でもあるのよ。わたしたち家族そのものなのよ」

 涼一は十五年ぶりに再会したという父娘の会話を、
苦虫を噛み潰したような顔で見つめ続けた。
母ちゃんが甘えん坊のお嬢様だということは知っていた。
父ちゃんと二人でいる時も甘え続けていたから…。
でもそれを不快に思ったことは一度として無かった。
重いものが持てない母の代わりに漬物石を持ち上げる時も、
食材の買い出しに行くことも、涼一にとってはくすぐったいけれども、
母を守っているのだという実感がわいて誇らしい瞬間でもあった。

 しかし、今は違う。母は一度は捨てたはずの父親にダダをこねているのだ。
まるでコートでもねだるように、この「サボテン」をねだっているのだ。
 涼一は心の中で何度も叫んだ。
(出てゆけ!出てゆけ!出てゆけ!)

 この店を薄汚い物置小屋のように眺めるじーさんも、
そのじーさんの胸に顔をうずめて子供のようにわがままをいう
母親も見たくはなかったから。
 けれども、確かにこの店を守り続けるためには母の言うとおり、
クソじじいの力に頼るしかないのだと…。

「わかった。雅恵。もう泣くな。お前の言うとおり、
この店の負債は私が肩代わりをしよう。
こんな場末のレストランで料理とも言えない料理をつくっていた
あの男のかわりに、もっと腕のいいシェフをやとってな」 

 その時だった、涼一は自分でも知らないうちに言葉を発していた。
「料理は俺がつくる!」
 その時、じーさんはようやくその場にいた涼一に気がついたようだった。
「この子は?」
「長男の涼一よ。今年で十四歳になるの」
 答える娘と、今にも噛みつかんばかりギラギラした瞳の少年を
交互に眺めながらじーさんは言った。

「お前さんに料理が作れるのかね」
「父ちゃんのレシピノートがある」
「労働基準法を知ってるのか?」
「子供が、親の店を手伝って何が悪い」
 じーさんは涼一の怒りでほの白くなった頬を見ながら言った。
「お前の顔は雅恵似だな。だが中身はあの男とそっくりだ。
雅恵を幸せにすると息巻いて、おめおめと癌なんぞで死んでいったあの男とな」
 父のことを言われて、
涼一は頭の中が怒りで爆発しそうになるのをかろうじて答えた。
「親子だからな」
 するとじーさんは乾いた笑い声をあげて言った。
「わかった。店の料理はお前に任せよう。
ただし、客に今みたいな虎のような表情を見せるのはやめることだな。
お前は料理の前に作り笑いを覚えたほうがいい」
「そうする」
「お前の顔が雅恵に似ていたことに感謝するんだな」
 じーさんはそれだけ言い残すと、黒い車に乗って「サボテン」を後にした。
 
 そしてそれから三年。
涼一は父の残したレシピを一つ一つ確実に自分のものにしていた。
 最初に店を再開させた時につくれたメニューは「カレーライス」と
「ハヤシライス」の二つだけだったが、
今ではオムライスを筆頭に、ビーフシチュウ、カツレツなどなど、
洋食屋のメニューはあらかたつくることができるようになった。
 
 そしてそれよりも何よりも、客商売に欠かせない「愛想笑い」を
涼一はマスターした。
しかし、その笑顔は、愛想笑いと気づかせない爽やかさで、
「涼一版サボテン」の魅力のひとつになっており、
京応高校生の心をわしづかみにしたものだった。