ふたりの会話を聞いているのが無性に辛くなって、僕は何も言わずにリビングを後にして自室へ戻った。

 後ろ手にドアを閉じて、そのドアに背中を預ける。



「………ださ」



 思わず口から零れたのは、そんな言葉。

 今の僕には、酷く似合いだと思った。



 地面に引き寄せられるようにずるずるとその場に座りこむと、少し根元の黒くなったベージュの髪を両手で絡めとって頭を抱えた。



 真依子が望むのなら、僕はそれを尊重すべきなのか。

 彼女が母親になることを僕が制御する権利はないと思うけれど、 ひとりで子供を育てさせるのはあまりにも無責任だ。



 今朝手入れをしたばかりの堂々たる漆黒の姿に視線をあげて、佇むピアノを見遣る。

 少し、心が落ち着く気がした。

 『そら、情けないぞ』と、祖父の怒号が聞こえるようで。

 乱れた前髪の隙間から覗く覇気のない瞳でしばらくピアノを見つめたあと、僕は静かに重い腰をあげてピアノへ歩み寄った。



 鈍く光るその体をツーっと人差し指でなぞり、小さく息を吐く。

 そのまま片手で蓋をあけると、引いたイスに腰かけて深紅の布から鍵盤を晒した。