ーー忘れないで

 か細く紡がれた言葉は誰に届くこともなく消えた。それがまた悲しいと感じてしまって心が苦しくなる。

 広く深い森の中心地に白を基調とした教会が建っていた。外観は純白の白ではなくどこか煤けていて、一見廃墟のようだが厳かな雰囲気を纏っている。それは教会内にまで及び、更にところどころ穴の空いた屋根から漏れる太陽の光が室内を転々と照らし、手入れもされていない古い教会であるにも関わらず神聖で幻想的な光景がそこに広がっていた。
 そんな神秘的な風景に目もくれず、ひとりの女性が教会の真ん中に座っていた。
 彼女の白いワンピースは血や泥にまみれ、手足はかすり傷が目立ったが大きな怪我はないようだった。しかし酷く顔色が悪く、なにかに耐えるかのように唇をぐっと噛みしめていた。

「忘れないで」

 彼女は再び、同じ言葉を繰り返した。
 気が狂いそうだと彼女は思った。なぜなら“ここ”は音がないからだ。風の音も生き物の鳴き声もなにも聞こえない。無音が一番の騒音だ。

 彼女の周りにはいくつかの棺が置いてあった。ガラス張りで出来ており、どの棺も中は白い花があるだけで空っぽであった。

 そして、彼女の目の前にも棺があった。 

 彼女は息が詰まる思いで、棺をみた。


 人の記憶とは酷く曖昧にしか残らない。
 小さい頃食べたスープは覚えていても、誰と食べたかはわからない。お気に入りの服を着たあの日は何をしたんだったっけ?
 それでも彼女は知っていた。人の記憶は儚くとも、消えているわけではないと。ほんの少しのきっかけで思い出すことができる。それまで大事に大事にしまわれているだけなのだと。

 でも

(私はちがう)

 彼女の宝石のような目から涙が一滴こぼれた。それに気付いて慌てて拭う。何度も何度も、出てくるなと思いながら手の甲で拭う。


『笑っていてほしい』


 そう願ってくれたあの人のために、泣いてはいけない。泣いたらだめなんだ。
 彼女は息を吐いた。ゆっくりと吐いて頷いた後震える身体を自身の両手で抱きしめた。


「誰に忘れられてもいい。でも、あなただけには憶えていてほしいの」


 それが無理だとわかっていても願わずにはいられない。

 彼女はそっと目を閉じ、笑みを作る。その笑みはとても綺麗であった。


「忘れないでーー」