塞ぎそうになるさくらに話題を変えようと、最近公園に設置されたスナックの自動販売機の事をふとを思い出して口にしたのだが、これがさくらにはかなり効いた様だ。
「え、自動販売機にハンバーガーですか? 見てみたいです」と、翔の後を追いかけて弾むように階段を上ってきた。 金属製の階段を上る自分より軽い足音を聞きながら、まるでシッポを振る子犬のようだと思わず込み上げる笑いを堪える。
すると突然足音が途絶えた。
「どうした?」と振り返ると、さくらはあと数段を残すところでピタリと足を止め、アパートの裏手に咲く桜の花を見つめていた。
「…桜がまだ花をつけていますわ。…なんて綺麗なの」
まるでさくらを歓迎するように大きく両手を伸ばした遅咲きの桜が、柔らかに風に揺られて枝を揺すっていた。
階下からは建物の死角となって気付きにくいが、階段を上る毎に徐々にその姿を見せるこの美しい桜が初めて見るものを魅了することを、翔はすっかり忘れていたのだ。
彼女の様子に自分がここへ越してきたときも同じように感動し、父の病と度重なる不幸に荒(すさ)んでいた心を癒されたことを懐かしく思い出した。
毎朝少しずつ蕾が膨らむのを見ていた筈なのに、そこにあることが当たり前すぎて、その時の感動などすっかり忘れてしまっていたのだ。
忙しい日常に『あたりまえであることの大切さ』を忘れていた自分の余裕の無さに、改めて気付かされた気がした。



