【中編】桜咲く季節に

「…ご迷惑ですか?」

「いや、そんなこと無いけど、俺でいいのか? 名前だぞ?」

不安げに見上げる彼女に、翔は慌てて首を振った。

「あなたに付けて欲しいのです。わたくしは自分が誰かすら分かりません。
どんな人生を歩んできたのかも、どんな家庭で育ったのかも…何も思い出せません。
でも、目覚めて最初に見たあなたの顔は、どこか懐かしい気がして…すごく安心する事ができたのです。ですから…」

やっぱりインプリンティングか。と、軽く溜息を吐き出す。

その様子を拒絶と捉えたのか、彼女は「すみません」と言い、哀しげに瞳を伏せた。

窓の外の見事な桜を背に小さくうな垂れ、長い睫を震わせる彼女の表情はとても儚げで今にも消え入りそうだ。

まるでこの世のものではなく、彼女の後ろで大きく枝を伸ばす桜の木の精霊なのではないかと、錯覚させられた。

「さくら…」

特に名前としてではなく無意識に零れた言葉。

だが耳に心地良いその響きに、彼女の名前はこれしかないと思った。