『無明の果て』

私のこの手は、時間をかけてたくさんの目に見えない経験をつかんで来た。


目の前にかざして、問いかける。


”後悔している?“


その答えは、私自身が導き出す、

「生きざま」

という名の未知なる道程。


まだ途中の険しい道。
後悔なんかしている暇はない。



店のドアが開くたび、振り返り確かめては、待つ人の来ない時間の流れの遅さにため息をついている。


初めてのデートじゃあるまいし、胸踊らせる自分の気持ちに、苦笑いしながら。


一行を迎える最初の言葉は何がいいんだろう。


重い荷物を抱えてここまで来た妻は、やっぱり

「ただいま」

と言うのが似合っているのかな。



日本へ戻る前に、岩沢と食事をし、彼は私にこう言った。



「妻は病気が完治しないことを悟って、クリスチャンになったんです。

友人に勧められて神父様のお話を伺っているうちに、”死“ というものに対して、恐怖心を越える穏やかな悟りを感じるようになったと言って。


その時の私は、ただただ慌てているだけでしたが。


それから妻は洗礼を受け、思い通り天に召されました。


あなたと空港で初めてお会いした時は、分骨とは名ばかりの妻の遺品を姉妹に渡して、理解して頂いた帰りでした。



妻が元気で生きていたら、僕はきっとあなたを口説いて、キザなセリフのひとつも囁いていたでしょうね。


そんな事は男の甲斐性と、高をくくっていたかもしれない。


夫婦なんて不思議なものですよ。


こんな魅力的な女性を目の前にしても、妻が愛しいと思うんですから。


もう手の届かない、触れる事も出来ない妻をですよ。



前にも言いましたね。
僕は愚か者だから、気付くのが遅すぎました。


遠くにいても、あなたのご主人があなたを必要としている事を、忘れてはいけないんでしょうね。


あなたが選んだご主人は、きっと素敵な方なんでしょう。


ここに居るあなたを、ちゃんと認めている。」


妻が導かれた信じる心を、学び始めた所だと穏やかな笑顔で岩沢は言った。