『無明の果て』

「運命なんてあるのかな。」


小池は微笑みもせずにそう言った。



考えてみれば、長い会社勤めの間に小池と二人で飲みに出かけた事など一度もなく、その人柄に興味を抱く事さえも無いに等しく、こんな大切な関わりを持つ事になった入社してからの小池との長い年月を振り返ると云う事が、本当は少し遅かったのかもしれないと今になって思っている。



日々を重ねて気づくこと。



年齢と云う重みが言葉なく語る、通り過ぎてはまた振り返る、この身にしみ入る古い傷口の愛おしさの数。



過ぎてしまえば大抵の事は、いつかもう一度輝きを放ち返すまで忘れてしまうものなんだろう。



だけどあの頃、同じ会社の上司とふたり密会などしていたとしたら、つまらない噂話のネタになって、今の私は存在していなかったかもしれないと 仕事ばかりしていた可愛げのないあの頃のキャリアウーマンを 今の私は懐かしく見つめるのだ。


「市川、会社の準備は進んでいるのか?」



「はい。

予定通りに進めば、半年後には始められそうです。」



「そうか…」



何か歯切れの悪い口調が、私に伝えなければならない何かを待っているのが分かる。



「専務、何かありましたか…」



静かなバーのテーブルで向かい合い、ネクタイを少し緩めながら小池は聞いた。



「アメリカに行ってどうだった。


市川の今に役に立ったか?」



真剣に でも優しげにたずねる仕草が、一瞬岩沢と重なって、私の呼吸を早くした。




「もちろんです。

専務にお声をかけて頂かなかったら、名ばかりの会社設立でうまくいったか自信はありません。


専務には失礼かもしれませんが、岩沢さんに出会えた事も、専務のおかげだと思って感謝しているんです。」



それに返事をする代わりに、黙ってうなずいた小池の口から私の耳に届いた言葉は、少しの間 瞬きさえも忘れさせ、時間を止めさせた気がした。