……。
　拓海という名前の一人の男の子がいた。
まだ肌寒さの残る五月雨の、ある日のこと。
　４歳の拓海は実の父親の罵声の中、両手いっぱいの荷物とリュックを背負って家を追い出された。頬を腫らした女性……（細い身体に似合わない大荷物を背負っている）母親も一緒だ。
「拓海や、お前は母さんが一人でも立派な大人に育ててやるからね」
　母親は酒とギャンブルに溺れ、借金を作り、容赦なく暴力を奮う夫と離婚し、たった一人で拓海を育て上げる決意をした。もともと天涯孤独の身の上だった。夫と別れた今、拓海だけが唯一の肉親であり、それは拓海にとっても同じだった。
「お母さん、僕、お母さんの言う事は何でも聞くよ、いい子になるからね」
　幼いながらも事の成り行きを理解しているのか、拓海は泣くこともなく、微笑んで母親と一つの傘をさしながら歩いた。
「……テル坊主～明日テンキにしておくれ」
　どこかで誰かが歌っていた童謡のフレーズが、この時の拓海に、いつまでもリフレインしていた。
　……時が経ち。
　拓海は大学生になっていた。母親の苦労の甲斐があってか、拓海は立派な孝行息子に育った。
　母もたった一人の肉親である我が子を大切に大切に、それこそ腫れ物に触るかのように大事に育て上げた。女で一つで大学に入れてやるまでには血の滲むような苦労をし、働いて働いて働きづめだった。もともとそれ程身体の強くない母は痩せこけ、白髪をこさえ、とても４０代の女性とは思えない老け込みようだった。見た目は５０代半ば……いや、６０と言っても大方の人は信じる程だった。
「私の可愛い拓海や。お前はお母さんの言う事をしっかりと聞くんだよ」
「うん母さん。大丈夫だよ。今度の就職試験は絶対に受かってみせるから」
　大学も４年になった頃、拓海は就職活動に追われていた。自宅から通える範囲で出来るだけ高給な仕事を探した。少しでも母に楽をさせたい、いつまでも自分の事を見守ってほしい。それだけを思って頑張った。しかし運命は彼をあざ笑うかのように試練を与えていた。