この空のした。〜君たちは確かに生きていた〜

 


同日 昼九ツ(正午)、容保さま・喜徳さまは、礼服に小刀のみを帯びた姿で、降伏調印式に臨みました。


そして西軍軍監・中村半次郎以下数名を迎えると、降伏謝罪の書を総督府に上呈いたしました。


会津藩主従にとっては最も口惜しく、悲憤の時であったに違いありません。



降伏開城の式が終わると、容保さまは一度 お城に戻られ、藩祖歴代の霊廟に参拝したあと、重臣将校達をお召しになり、長い間の苦労を労い、訣別の意を告げられたそうです。


その後二カ所の空井戸と二の丸の墓地に花束を手向け、容保さまと喜徳さまは謹慎のため、利勝さま達のご遺体が葬られた滝沢村妙国寺へ向かわれました。



降伏式場で敷かれた緋毛氈(ひもうせん)は、その後 細かくちぎり分けられ、生き残った藩士達に配られたといいます。

それはいつしか『泣血氈(きゅうけつせん)』と 呼ばれ、会津藩士が血の涙を流し、この日の屈辱を忘れまいとの思いを込めた、決意の証となりました。




………それからね、利勝さま。


私達のところでも、大変なことがあったんですよ。

弁天山で亡くなられた利勝さま達のご遺体を葬ったことが、西軍に知られてしまったのです。


西軍の兵士がまつ達の家に来た時には、本当に背筋が凍えました。

「賊軍の埋葬は(まか)りならん」と通告したのに、あえてそれをおこなった(とが)を厳しく問い詰められて、弥平太さんは正直に名乗り出ようとしたんです。



(どうしよう……!まつのために、私達のためにとしてくれた事で、弥平太さんが捕まってしまう!)



そう恐れた矢先。

その時 居宅に戻っていた主人の吉田(よしだ) 伊惣次(いそうじ)さんが、

「遺体を埋葬したのは、私でございます。家族や村人の手伝いは一切受けておりません」

そう言って、息子を制して自ら進んで名乗り出たのです。



伊惣次さんは当時、会津軍の使役のため、ずっと家を留守にしておりました。

それなのに、事情を知っていた伊惣次さんは、あえてご自分から西軍に出頭したのです。

あの時のおさきさんは、見ていてとてもいたたまれませんでした。


ですけどね、数日後に伊惣次さんは、無事に釈放されたのですよ。

私達はそれを手を取り合って喜びました。

家族の絆、大切なものを守ろうとする強さを見た思いでした。