………利勝さま。
あれから 利勝さま達が空へ旅立ったあとも、戦争は半月以上も続きました。
西軍はお城の東南にある小田山を占拠し、そこから連日連夜お城に何千発もの榴散弾(※落ちると炸裂して小銃弾が四方に飛び散る砲弾)を撃ち込んだそうです。
四境で戦っていた会津諸隊も、籠城戦の報せに続々とお城へと戻り、城外や近郊で必死の攻防戦を繰り広げました。
堅固な造りの城郭と、徹底抗戦の姿勢を崩さない会津魂。
九月に入り朝夕の寒気が厳しさを増すと、思うようにお城が陥落しないことに、西軍は焦ったといいます。
もうすぐそこに冬が近づいていました。
西軍は東北の厳しい冬に耐えられないのです。
九月十四日の朝、とうとう西軍は、全軍に総攻撃の命令を出しました。
外郭を囲んで設置された大砲十六門、それに小田山などの近郊から、いっせいに砲撃を開始したのです。
お城は一昼夜に二千五百発余りの砲弾を受け、天守閣は破壊され 登ることもできず、城中にはしばしば火災が起こりました。死傷者も続出しました。
戦没者は城内にある二カ所の空井戸に葬られましたが、そこがいっぱいになると二の丸の梨畑を墓地にしたそうです。
怪我人や病人、婦人子供のいる部屋にも容赦なく砲弾が飛び込み、被弾した者は 一瞬にして身体を吹き飛ばされ、辺りに肉塊が飛散したといいます。
そんな悲惨悽愴な光景と、食糧も弾薬も逼迫する情況に、家臣や婦女子の奮闘虚しく、とうとう容保さまは「もはやこれまで」と 降伏を決意。
その旨を西軍に伝え、
九月二十二日昼四ツ(午前十時)頃、お城の追出門前に「降参」と書かれた白旗が掲げられました。
白布は負傷者の包帯に使われて、とうに尽きていたので、小さな白布をつぎはぎして作られた、哀しい旗でした。
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