二本松城を落としたあと、南国育ちの西軍は冬の到来までに決着をつけたいと、



郡山(こおりやま)から会津に入る中山峠を攻めると見せかけ、八月二十一日早朝、会津国境の関門石筵口(いしむしろぐち)から母成峠(ぼなりとうげ)を攻めました。



その兵力は、薩・長・土を主力とした約三千もの大軍です。



それに比べ、険しい山岳に囲まれた地形に頼り、会津軍の守備兵力は薄く、大鳥 圭介さま率いる伝習隊(でんしゅうたい)、土方 歳三さま率いる新撰組が守備に務めておりましたが、


その数はわずか七〜八百で、兵の多くは訓練も受けていない臨時編成の農兵でした。



西軍は二十余りの大砲を投入し、会津軍陣地を粉砕。



藩境に戦線が広がっていた会津藩は、わずか五門の大砲しか置いておらず、応戦できませんでした。



母成峠を破った西軍は一気に会津盆地に進入、猪苗代城(いなわしろじょう)を攻めます。



母成峠の敗報が若松城下に寄せられたのは、翌二十二日の早朝でした。