七月も過ぎると、戦況はますます悪くなっておりました。


北上してきた西軍は白河城を落とすと、六月二十四日に棚倉城(たなくらじょう)、七月十三日に磐城平城(いわきたいらじょう)を次々に陥落。



若松まで最短距離の白河口から勢至堂峠(せいしどうとうげ)への守りは堅固(けんご)で、進攻が難しいと踏んだ西軍は、三春・二本松方面へと進軍いたしました。


そして 会津とともに戦う姿勢を見せてくれていた同盟軍にも、ほころびが見え始めておりました。


同盟軍に名を連ねていた久保田(秋田)藩は、七月四日に同盟を破棄。

それにならい、近隣の藩は次々と同盟を離脱します。

そして三春藩も棚倉城奪還に際し、突如反逆し同盟軍に発砲。

二十六日には近隣の守山藩と並んで、西軍に降伏いたしました。


それとは反対に、二本松藩は主力を尽くし戦って下さいましたが、

七月二十九日、二本松少年隊の悲劇などを生んだのちに落城します。



二本松藩と同じく、必死で戦う越後長岡藩は善戦しておりました。

長岡藩家老・河井(かわい) 継之助(つぎのすけ)さまが、近代兵器のガトリング砲や小銃を用いて、その才覚を活かし尽力して下さったからです。


会津藩からも、猛将・佐川(さがわ) 官兵衛(かんべえ)さまの軍が駆けつけており、北越戦争で西軍は、思わぬ苦戦を強いられておりました。


河井さまの軍は、一度奪われた長岡城を奪回したものの、同盟離脱した新発田藩が西軍の軍艦を誘導、(かなめ)の新潟港を奪われてしまいます。


これにより武器・弾薬の補給が出来なくなり、同盟軍には大きな痛手となりました。


その後、二本松落城と同日に長岡城も再び落城。


同盟軍も散りぢりになり、負傷した河井さまも会津へ落ち延びようと、八十里越(はちじゅうりごえ)という難所を山越えなさいましたが、

傷の悪化により、途中会津塩沢で無念にもその生涯を終えてしまいました。





こうした戦局の中で、我が藩は徐々に孤立していったのです。