閏四月の下旬、とうとう各地の国境や北越で戦闘が始まりました。


 防衛上国境で特に重要なのは、白河口・越後口・日光口でした。


 奥羽の関門白河では、家老・西郷 頼母さまが総督となり、我が藩から一千余りの軍勢が向かいました。


 そして奥羽越列藩同盟の盟約に沿い、仙台藩も同じ規模の軍勢を送り、これに旧幕府軍の兵も加わり、同盟軍は二千五百を上回る兵力で西軍を待ち構えました。



 五月一日。白河城をめぐる攻防戦は、西軍の兵力わずか七〜八百にもかかわらず、圧倒的な火力で攻められ、同盟軍の指揮官は相次いで戦死。


 たった半日で、約七百人もの戦死者を出し、惨敗いたしました。


 その後も約一ヶ月にわたり、必死で白河城の奪回戦を試みますが、同盟軍はにわかに結びつけた連合軍であったために共同作戦もうまくゆかず、戦況ははかばかしくありませんでした。


 そんななか兵士達の志気を高めるために、若殿喜徳さまが、会津と白河を結ぶ街道の中間地点である福良(ふくら)へ出向き、白河方面の会津兵を激励することとなりました。



 そして その喜徳さまを護衛することになったのが、白虎隊士中一番隊と二番隊でした。



 これが 白虎隊の初陣です。

 そして利勝さま、兄さまの初陣でした。



 以前から出陣したくてウズウズしていたおふたりや隊士の皆さまは、この出動命令にどれほど跳び上がって喜んだことでしょう。