関東のあちこちに戦乱が広がるなか、薩長軍(以後西軍)は、会津攻撃作戦も着々と進行させておりました。



三月中旬には早くも奥羽鎮撫総督(おううちんぶそうとく)九条(くじょう) 道孝(みちたか)一行が、仙台湾寒風沢(さぶさわ)に上陸。


仙台・米沢の重臣を招いて、会津に兵を差し向けるよう催促をいたしました。


もとより会津に同情していた仙台・米沢両藩は、会津救済に力を尽くそうと、我が藩が提出した嘆願書に奥羽列藩連名を添えて、奥羽鎮撫総督府に提出いたしましたが、

その総督府下参謀・世良(せら) 修蔵(しゅうぞう)は、嘆願書を受け取ることを拒否、その驕慢(きょうまん)な態度に激しく怒った仙台藩は、世良を誅殺してしまいます。



この事件により奥羽諸藩と西軍の関係も悪化、奥羽諸藩は急ぎ同盟を結びます。

そこに五月には越後六藩も加わり、計三十一藩による奥羽越列藩同盟が成立。



会津藩とともに、西軍と戦う姿勢を見せてくれたのでした。