江戸から戻られた容保さまは、家督を養嗣子(ようしし)喜徳(ひさのり)さまに譲り、隠居いたしました。



ご自身も慶喜公にならい、別邸御薬園(おやくえん)で謹慎、嘆願書を提出し、恭順の意を表しました。



しかしその一方で、薩長軍はあくまで武力で攻めてくると判断した藩の重役の方がたは、対抗するための手段として大幅な軍制改革を断行いたしました。



鳥羽・伏見の戦いで近代兵備の遅れを痛感した我が藩は、それまで長く続いてきた長沼流兵法を改め、新たにフランス式を導入いたしました。



それから年齢別の部隊編成。

これまでの部隊は、青年も老人も同じ隊に属しており、体力のばらつきなどで行動が統一できない問題点がありましたので、今回の改革で全軍を年齢別の四隊に分けることとなりました。