幕府軍は敗色濃厚となり、さらに薩長軍は追い打ちをかけます。


 錦旗(きんき)を掲げ、自らを朝廷軍であることを示したのです。


 錦旗とは天皇の旗。


 我々は勅命によって遣わされた征討軍なのだというのです。


 この旗を掲げた軍に逆らうのは、朝敵になるという意味。


 これを知った慶喜公は、朝廷には逆らえぬと、容保さま以下数名の家臣を従え、夜陰にまぎれて城を脱出。
 軍艦開陽丸に乗り込み、江戸へ戻られてしまいます。


 大将の戦線離脱に、幕府軍は衝撃を受けました。


 大坂城内は騒然となり、戦地にいた幕府軍も混乱し、大坂城まで敗退しました。


 この戦いで、幕府軍は惨敗。


 先鋒をつとめた我が会津藩は死傷者が多く、負傷者を連れて江戸へ帰るのは、大変困難なことでした。


 負傷者を船に乗せ、会津藩兵の皆さまが江戸に戻られたのは、正月も二十日を過ぎた頃でございました。