慶応三年の暮れ、慶喜公は一気に京の都を制圧しようと、一万五千の軍勢に上洛を命じました。


ただ慶喜公は、兵の数で薩長を威圧し、事件を終局させようとのお考えだったらしく、戦意を持って戦に望んだ訳ではないようでした。





そして慶応四年(1868年) 正月三日。



京の都に上がるべく、鳥羽街道と伏見街道に別れて進軍してきた幕府軍は、先に鳥羽街道で薩摩藩兵とぶつかりました。


その兵力は、長州と合わせてもせいぜい五千。
三倍の兵力をもつ幕府軍は、余裕すらありました。


圧倒的な兵の数に、まさか撃っては来ないだろうと、強引に通過しようとした幕府軍に、薩摩藩は容赦なく発砲しました。




とうとう戦いの火蓋が切って落とされたのです。




これが、これから約一年半に及ぶ『戊辰戦争』の始まりでした。