年が明けて、慶応三年(1867年)一月九日。


明治天皇がご即位されました。


幼い帝を擁立した薩摩・長州の倒幕派が、主導権を握ってしまったのです。



弱体化した幕府はもうどうにもならず、容保さまもこれ以上我が藩を窮地に追い込むことはできないと、守護職辞退と帰国を申し込みますが、慶喜公は許して下さりませんでした。



十月十四日。

土佐藩士 後藤象二郎らが大政奉還の建白書を提出、十五代 慶喜公は、これを受けるかたちで大政を奉還いたしました。



二百有余年続いた徳川幕府が、終わりを告げたのです。



そして十二月九日。


王政復古の大号令が下り、幕府・守護職・所司代などの制度はすべて廃止となりました。



容保さまが約六年間努めてきた守護職の任務も、ここに終わりました。



しかしあくまでも武力倒幕を目論む薩摩・長州は、慶喜公に将軍職やご領地の返上を求めただけでなく、江戸で騒乱を起こし、幕府を挑発し続けました。



一触即発の危機を避けるため、大坂城に退いた慶喜公と容保さまのもとに、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩が、三田にある薩摩藩邸を焼き討ちにしたという報せが届き、

とうとう慶喜公は、薩摩・長州と一戦を交える覚悟を固めたのです。





もう戦いは、避けられませんでした。