文久二年(1862年)閏八月。


容保さまのところに、『京都守護職』という台命(※将軍さまの命令)が下りました。


『京都守護職』とは、京都所司代(※朝廷の守護と監視などをする役職)の上に、緊急に作られた役職でした。


京でも幕府の力は弱まるばかりで、尊王攘夷の多くの浪士たちが京に集まり、横行を繰り返していたのです。


所司代や町奉行だけでは治安が守れきれず、幕府の力が衰えているのは、誰の目にも明らかでした。


そんな中、この役職を受けるのは、尊王攘夷派の反感を一身に買ってしまうこと。


容保さまは再三断ったものの、聞き入れてはもらえませんでした。


国家老の西郷(さいごう) 頼母(たのも)さま、田中(たなか) 土佐(とさ)さまが、会津から江戸へと早馬を走らせ、何とかご辞退していただくよう進言いたしましたが、


容保さまは家訓(※)に従い、台命をお受けすることに決められたのでした。





家訓(かきん)……会津松平家に伝わる、『家訓十五箇条』のこと。

寛文八年(1668年)に、初代藩主保科正之公が制定した。

他藩に判断基準を求めず、徳川宗家と運命を共にせよ。
もし心が将軍家から離れることがあれば、わが子孫とは思わない。

……という、内容が記されていた。