「まず此処だな。」
総司はある店の前で立ち止まった。
しかし、楷書に慣れている奏にとって草書、悪く言えば蚯蚓の這ったような文字は読むことが出来ず何の店か見当もつかない。
医術や歴史に関する知識はともかく、大衆風呂もそうだったが、改めて自分の常識が通用しないことを思い知った。
看板の文字すら読むことが出来ないことは少なからず奏にとってショックであった。
壬生浪士組の方々が親身になってくれて本当に良かった。
彼らが私に生活の場を提供してくれなければ今頃野垂れ死に、若しくは遊廓に売られる、または不逞浪士に斬られるのいずれかであっただろう。
そう思うとゾッとした。
「総司、ここは何屋だ?」
「書いてあるじゃねぇか。」
総司は店先に掲げられている看板を指差した。
「読めない。」
「………………文字が判らんのか。」
「私の時代は楷書なんだ。草書は判らない。出来れば時間がある時で構わんから今度教えて欲しい。」
「そうだな。文字が読めねぇのは何かと不便だからな、時間あるないに関わらず、ちゃっちゃか教えてやるよ。」
文句の一つや二つ返ってくるかと思ったが快く了承してくれた総司に奏は「ありがとう。」と微笑んだ。
「此処は呉服屋だ。」
奏の礼など聞こえなかったかのように総司は暖簾をくぐった。
奏も慌ててそれに続く。
「すみません。」
総司が声をかけると奥から人が良さそうなー歳は三十くらいだろうかー女性が出てきた。
「これは、これは沖田はん。いらっしゃいませ。」
どうやら総司と顔見知りなようだ。
奏の視線に気づいたのか「あぁ。」と総司は面倒くさそうに説明しだした。
「壬生浪士組御用達の呉服屋の大文字屋呉服店だ。」
「大丸!?」
奏の言葉に総司は不思議そうな顔をする。
大文字屋呉服店。
1717年に現在の京都市伏見区に創業されたそれは平成では大丸と名を変えて関西中心に展開している。
というのは全くの余談であるが。
なんて、この二人の前で言えるはずもなく笑って誤魔化した。
「この方はおフネさん。いつも世話になっている。」
「フネどす。以後お見知りおきを。」
フネはゆっくりと頭を下げた。
その一つ一つがとても美しく思わず奏は見とれた。
「沖田奏です。此方こそ、これからご厄介になります。」
社交辞令もそこそこに総司は本題に入った。
「此奴の袴を仕立てたい。反物を四、五反見立ててくれ。」
総司は奏の腕を掴むと、ぐいっと引っ張り、そのままフネの目の前に突き出した。
奏を上から下まで見たフネは目を丸くした。
が、また直ぐに優しい笑みに戻って、
「また随分と麗しい若衆でございますね。腕が鳴りますわ。」
と奏の腕を引いた。
「些か時間を頂けますやろか。沖田はんはその間に適当にお時間を潰していただけると助かります。」
「目処は?」
「へぇ、半時(一時間)ほどで。」
「判った。そいつをよろしく頼む。」
「頼まれました。」
総司は「では、半時後。」と踵を返した。
自由な総司に奏は呆気にとられるばかりだった。
