彼が操縦士に復帰した、あの日。
以前にも泊まったあのホテルの一室(財前家所有)で、彼から交際の申し出を受けた。
『一からやり直そう』
恋人としての関係は何ら問題はないんだけど。
お互いに会える時間が極端に減ったことと、お互いに疲労が蓄積して、相手の気持ちを労わる余裕がないということ。
自分にも言える。
15時間を超えるオペのあとに、映画に誘われても2時間も瞼を開けてられない。
明るい屋外ならまだしも、薄暗い室内では……。
彼だって同じ。
フランス帰りの長時間フライト後でドライブする気分にはなれないだろうし。
結局、時間が合ったとしても家で寛ぐしかしてないこの1年半。
どこかに行ったとか、何かをしたという記憶は殆どなく。
辛うじて外食はしても、その味すら覚えてないほど疲れ切ってるのが関の山。
私たち、本当に上手くやって行けるだろうか?
「彩葉ちゃん、この後、少し時間ある?」
「はい?」
「ここじゃ話せないから」
「あ、……はい」
葵さんは優しく微笑んでキッシュを口にした。
***
「お子さん放置して大丈夫なんですか?」
「うん。今日は両親に預けて来たから」
「そうなんですね」
高校の英語教師だった葵さんは、第一子出産を機に休職し、その後復職して数年。
第二子の出産を機に退職した。
今は子育てしながら、自宅で翻訳の仕事をしているらしい。
何でも、葵さんのお姉さんが出版社にお勤めだそうで。
幼児向け絵本の翻訳が一番性に合ってるだなんて口にしている。



