ノーネーム。
 名前がない事。

 これが俺の名前だと気付いたのは数分前の話だ。ベッドの傍に置いてある机に履歴書が置いてあった。俺の顔写真がついたそれには『ノーネーム・実験体046』と。

 何の実験体か知らないけれど、とにかく――名前があるのかないのか分からない名前をつけるのは止めて欲しかった。





「ノーネーム、命令だ。奴を殺せ」



 今日も冷徹な声が俺に命令を下した。俺の背後に居る男が声の主であり、目の前にいる男が今から俺に殺される人間である。後者の男、何をしたかは知らないが組織に逆らう様な事をしたのだ。

 残念ながら俺は組織に雇われる身であるから、後ろの男の言葉には逆らえない。組織の命令は絶対。逆らえば俺の命が奪われる。

 殺せ、か。どうしよう。奴は簡単に言ったけれど。



「武器がない」



 俺は振り返って男を見た。腕を組んで邪魔くさそうに俺と目線を合わせた奴は蔑んだ様な目でじっと俺を睨み付けている。



「ならどうすれば殺せるか考えろ、馬鹿者」



 命令するなら方法くらい言ってくれれば良いものを。その道具くらい貸してくれれば良いものを。知らないのだろうか。

 普通、人は人を殺すための道具を常備していないと言う事を。俺も人だからそれに当てはまるのだけれど。彼は俺よりも馬鹿ではないか。



「早くしろ、時間が惜しい」



 時は金なり。

 なら命はどうなのだ――そんな事、今では誰も考えない。時は金なり。時間は貴重だから無駄にはしてはいけないと言うこと。だが今の世はまさに命は金なり。命は金になるものだからさっさと奪ってしまえ、と言う事だ。

 俺は目の前の男に飛びかかり喉元を両の親指で押さえ込んだ。苦しいともがく男の姿は俺の視界に入っているが、きっと明日には忘れてしまう事だろう。故人を覚えておく等、誰もが出来る事ではない。俺は記憶が乏しい。だから、きっと明日には覚えて……。



「おい、もう良い」



 後ろの男がそう言った。それを合図に両手の力を抜く。すると俺の手が掴んでいた首は頭の重さに耐え切れずぐたっと力なく地面に落ちた。脳が命令を止めたのだ。当然身体も動かない。

 これが死と言うもの。

 きっとこの男にはやり残した事が山ほどあったに違いない。何をしたかは知らないが、こんな所で俺に殺されるなんて、無念だろう……あぁ、それにしても彼は何をしたのだろうか。



「どうして彼を殺さなければいけなかったんだ」


「愚問だ。くだらない質問をするな」


「分かった」


「行くぞ。まだ何人か殺らなきゃならん」


「俺が、だろ」


「それがお前の仕事だろうが」



 男は死んだ男を放って歩き出した。俺は一度だけ死んだ男を振り返ってから先を行く男を追いかける。それを確認した先行く男はため息と共に腕時計を見て携帯で通話を始めた。