涙と、残り香を抱きしめて…【完】


寝室にこもってしまった星良に何度も声を掛けたが、返事は返ってこない…


このまま閉じられたドアと叩き続け、強引に星良を引っ張り出したところで、今の彼女を納得させる事は…
おそらく出来ないだろう。


それに、星良の不倫相手が水沢専務と知り、俺自身が動揺していた。
こんな精神状態で彼女と向き合っても、余計な事を口走って星良を傷付けてしまいそうで怖かった。


少し時間を置くか…


仕方なく星良の部屋を出て、自分の部屋の扉を開けようとして手を止める。


このまま部屋に戻り一人になれば、良からぬ想像で自分を見失いそうな気がしたからだ。


「まだ7時…飲みにでも行くか…」


そのままエレベーターに乗り、一階に下りる。
静まり返ったエントランスに靴音を響かせながら玄関を目指し歩き出すと、誰か帰って来たのか、ゆっくり扉が開くのが見えた。


「あっ…」

「あら?イケメンさんじゃない」


それは、水沢専務の彼女…安奈だった。


「その呼び方はやめてくれないか?」

「ふふ…。お気に召さなかった?」


小悪魔みたいに意味深な笑みを俺に向ける。


「今日は、例の彼女さんと一緒じゃないんだ」

「…まぁな」

「じゃあ、誘惑しちゃおうかなぁ~
あたし、夕食まだなんだよねー…
どう?デートしない?」


そう言うと、俺の腕に手をまわし甘える様に微笑む。


「デートねぇ…。水沢専務が待ってるんじゃないのか?」

「仁君なら平気だよ。今夜は遅くなるって言ってたもん」

「仕方ないな…
安奈ちゃんの誘いなら、断れねぇな…」

「ヤッター!!
じゃあね、前から行きたいって思ってたイタリアンのお店があるの。
そこ行こ!!」


俺達はマンションを出てタクシーに乗り込むと、走り出したタクシーの後部座席で、どちらともなく視線を合わせる。


「しかし、安奈ちゃんが水沢専務と付き合ってたとはな…
あんなオッサンのどこがいいんだ?」

「あら、失礼ね。
仁君は蒼君より、ずーっと素敵よ」