僕は今日もいつもの電車に乗っている。
 去年開通したばかりの京葉線、東京行きの通勤快速。始発駅を出たら一つ手前の駅まで停まらず、狙って駅まで行けばかなりゆったりと通勤出来るその電車は、僕のお気に入り。
 座る位置まで僕は拘っていて、東京駅のエスカレーターにいち早くたどり着くよう、10両編成の7両目、左側一番前の扉横のシートに毎日変わることなく陣取る。
 いつものように東京駅に到着するという車内アナウンスが流れ、暗い地下トンネルの中に、ベージュやオレンジそして京葉線のラインカラーの赤で彩られた、眩い程の地下ホームがいきなり視界に飛び込んでくる。やや乱暴な停車に大きく身体を揺すられながらも僕は立ち上がり、その場で身体を翻すとドアの前に立つ。ドアが開くやいなや、エスカレーターに向かって猛ダッシュ、これも毎日欠かさず行われる僕の行動だ。
 
 東京駅京葉線地下ホーム。大深度に建設されたそのホームからは、地上に出るまでにかなり長いエスカレーターを2本経由しなければならない。電車から吐き出された大量の人々は、砂時計の砂のようにその細いエスカレーターに吸い込まれて行く。
 疲れ切ったかのように手すりに凭れ掛かり、エスカレーターに身を委ねゆるゆると昇って行く人達はステップの左側。右側に空いたスペースを、急ぐ人達が早足で登って行く。僕はいつも後者で、項垂れているように見える人達を尻目に、上を目指し駆け上がるように登って行く。
 一つ目のエスカレーターを降りた時、僕は腕時計に目をやる。

 8時ちょうど。

いつもと同じ時刻であることに僕は満足して、地上を目指すべく次のエスカレーターに歩を進める。その時だった……

 誰かの視線を感じる。

背後からの柔らかいけれど強い視線に、思わず立ち止まり振り返る。僕が急に立ち止まったのでぶつかりそうになった男が、舌打ちをして一瞥をくれながら僕の脇をすり抜けて行く。そんなに長い時間ではなかったはずだが、暫くの間僕は雑踏の中に踏み留まり、その視線の源を探した。
 それは、僕とは違うエスカレーターを使う、人の群れの中にあった。
 発しているのは僕と同い年くらいの女性。ピンクグレーのカットソーに肩ストラップでふわふわの白いワンピースをサラリと着て、寒々しい色合いのスーツを纏ったサラリーマンの群れの中で、その格好は酷く目立つものだ。その人がなぜか、僕の方に零れるような微笑みを向けているではないか。

 綺麗な女
ひと
だなぁ……

心の声が思わず口から出そうになって、僕は彼女から視線を外し俯く。長い髪を靡かせ颯爽と歩いて行くその姿や、何よりもあの可憐な微笑みが「白百合」を連想させる人だった。
 我に返り顔を上げると、そこにはすでに彼女の姿がなかった。慌てて辺りを見回すも手遅れだったようで、僕の視界の中にあの綺麗な女はいない。僕はがっかりしてため息を一つつくと、いつものエスカレーターに向かい歩き始める。

 また会いたいな……

そう強く願いながら。
 僕は恋に落ちた。そう、あの綺麗な女に一瞬で恋してしまったんだ。



 次の日の朝、僕は同じ電車に乗り同じ場所に腰掛ける。これまでの習慣に、新たに願掛けをする思いも付け加えて。そうすればまた彼女に会えるような気がして。
 いつものように、電車は東京駅のホームに滑り込む。そして僕は、いつものように身を翻しながら席を立ち、ドアの前に立つ。開くと同時に駆け出して、エスカレーターの右側を登って行く。徐々に眼前に広がる地下コンコース。エスカレーターの終端で躓かないように、僕はしっかりと歩幅を合わせてコンコースへと歩を進める。そして腕時計に目を落として8時ちょうどを確認すると、願いを込めて視線を上げる。

 いた……!

今日も可憐な微笑みを浮かべて、彼女がコンコースを歩いて行く。僕の気持ちまで見透かしたようなその笑顔に、僕はいたたまれなくなって俯いてしまう。そして顔を上げた時には、既に彼女が視界から消えていたのも昨日と同じで。とてもがっかりした。がっかりしたんだけど…… 僕は嬉しかったんだ。何故かって? 明日も同じ行動をして同じ時間にここに来れば、きっと彼女に会えると確信したから。思い込みかもしれないけど、きっと明日も会える! そう信じて。僕は足取りも軽く、会社への道のりを歩き始めた。
 そしてコトは僕の思う通りに進行する。次の日も、またその次の日も、8時ちょうどにコンコースに現れる僕の目の前を、笑顔を浮かべた彼女が通り過ぎて行く。その笑顔は僕に向けられたものではない、勘違いしてはいけない、と考えてみることもあったが、彼女の笑顔の美しさに僕はすっかり参ってしまっていた。会社の休日で会えない時には、彼女を思って身悶えしてしまう程に、本当に好きになってしまっていた。
 


 それからも彼女の笑顔を毎朝追いかける日々が続いていたが、ある金曜日の朝に、僕は一つの賭けに出ることにした。彼女の気持ちを知るための行動だった。
 僕は今までずっと、彼女の視線に気づかないフリをしてきた。もし僕の思いが勘違いなら、とても恥ずかしいことになると思ったからだ。でも、もう抑え切れなかった。どうしても彼女の気持ちを知りたくて策を練った。
 出した結論は、僕も彼女に意思表示をしてみること、だった。彼女に向かって会釈をし、意志を持って笑顔を向け、そして彼女がどんな反応をするのかを見る、そんな作戦だった。
 今日も同じ行動でコンコースへ8時ちょうどに到着。視線を上げると、あの眩しい笑顔が見える。僕は頷くように会釈をすると、彼女の瞳を見つめて破顔した。
 目を丸くして驚いている様子の彼女だったが、嬉しそうな、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべて僕に近づいてくる。僕の前に立った彼女は、暫くの間頬を赤らめ恥ずかしそうにしていたが、その様子が可愛過ぎて、僕は声をかけられずにいた。
 彼女が口を開く。想像通りの可愛い声で僕に語りかける。
「やっと気づいてくれた」

 ……え?

思いがけない言葉に、僕は思わず小さく声を上げてしまった。
「初めてあなたを見たときから、ずっとあなたが気になってて…… わたし気がついたら、毎朝あなたの姿を追ってたの」

 ……そうだったんだ

「どうしてもあなたにこの気持ちを伝えたくて、あなたに毎日微笑みかけたわ。ちっとも気づいてくれそうにないあなたが、ずっと恨めしかったの。変な女、って思われてるかもって悲しかったの。正直なところ、もう諦めようかって思ってたんだ。あなたの顔を見るのが辛くなるから、電車も違う路線にしようって考えてた」
 僕は放心したように彼女を見つめていた。それを見た彼女が慌てたように声をかける。
「こめんなさい! わたしのことばっかり…… いきなりこんなこと言われても困るよね?」
 申し訳なさそうにする彼女の姿が愛しくてたまらない。気がつけば僕は、秘めていた思いを彼女に吐露してしまっていた。
「そんなことない。僕もあなたのことがずっと気になってた。毎朝ここに来るまでの間、馬鹿みたいにドキドキしてさ。あなたの姿を見るたびに、あなたの笑顔を見るたびに嬉しくって切なくって。もうどうしようもないくらい、あなたを好きになってた」
 彼女が再び目を丸くして、驚いた表情を見せる。
「ほんと……?」
「本当だよ」
「嬉しい」
 その瞬間、僕の右手が柔らかなモノでふわり、と包まれる。
 彼女の両手…… だった。彼女は僕の手を取ったまま、自分の胸の前に捧げるようにすると、僕の顔を熱く見つめて言った。
「あのね、わたしにとってあなたと会える朝の数秒間は、一日の間で一番幸せな時間なの。あなたの顔を見るだけで、元気をもらえていたわ」
 それは僕も同じだった。そんな思いまで共有出来ていたなんて。僕の中いっぱいに嬉しさが広がる。
「だからこれで満足しなさい、って自分に言い聞かせてたわ。これ以上を望むことは自分を傷つけることになると思ったから」
 その思いも自分と同じ。さっきの行動がなかったら、そのまますれ違うことになってたと思い、僕の背中を戦慄が走る。
「あなたがさっき笑い返してくれた時、涙が出そうなくらい嬉しかったの。やっと伝わったんだ、って、やっと気づいてもらえたんだ、って何も考えず歩き出して、気がついたらあなたの前にいた」
 溢れる思いを滔々と語る彼女。僕もその思いに応えないといけない。
「あなたを、あなたの笑顔を、自分のものにしたいとずっと考えてた。あなたの笑顔が、目の前を通り過ぎるだけなのが辛かった。これからはずっと、僕の側で笑ってて欲しい」
 そう言って僕は、左手も添えて彼女の小さな手を包み込むと、彼女の瞳を見つめた。
「ほんとに側にいていいの?」
「もちろんだよ」
 彼女の瞳から、澄んだ涙が溢れ出す。
「嬉しい……」
「どうして泣いてるの?」
「嬉し過ぎて、涙が出てきちゃうの」
「嬉しいときは、笑わなきゃ、ねっ?」
「はい……」
 彼女は素直にそう言って、あの白百合のような笑顔を浮かべる。そして僕は……彼女を抱きしめてしまった。
 最初は身を固くしていた彼女だったが、両手と頬を僕の胸につけて僕に体を預けてくれた。人通りの多いコンコースで抱き合う二人に、好奇の視線は数多く突き刺さっていたが、もうそんなことはどうでも良かった。やっと彼女を手に入れられたんだから。
 どのくらいそうしていたんだろうか、ふと我に返ると彼女の拘束を解いて、腕時計に目をやる。
「あっ! もうこんな時間だ!」
 始業時間が迫っている。慌てる僕の様子で彼女も我に返り、あたふたと身なりを整え始める。
 それでも離れがたく名残惜しくて。後ろ髪を引かれる思いでいた僕は、彼女に提案をした。

 「また会おう? 明日、この場所で」
 
 彼女は満面の笑みを浮かべる。その顔を見つめる僕も嬉しそうに笑っているのだろう。 
「うん、明日またここで」
 彼女もそれに応えてくれた。僕らは携帯電話を取り出して、お互いの連絡先を交換すべく作業を始める。シャリン、と音がしてデータが行き来すれば、お互いの携帯電話がお互いの連絡先を記憶した。
 彼女のことが記憶された携帯電話は、それだけでほっこりと温かくなったような錯覚を起こす。
「何だか嬉しいな、あなたを少し、わたしのものに出来たみたいで」
 そう言って悪戯っぽい笑顔を浮かべる彼女。僕も同じことを考えていたんだよ。
 僕は彼女の手を再び取って、彼女の瞳に訴えかける。
「約束だよ? 明日、この場所で」
「うん、約束。明日ここでね」
 僕は彼女の手をキュッと握り締める。
 
 幸せな約束。昨日までは思いもつかなかった約束。

 僕たちはそれをしっかりと抱きしめて、それぞれの仕事場に向かうべく別々のエスカレーターを登り始めた。