自分に向けた嘲笑と溜息をこぼしながら、今度はゆっくりと階段を下る。さっさと、仕事に戻ろう。
 そう思った時だった。
 『もし、兄さん』
 突然声を掛けられた。中年のおじさんくらいの声だ。
 慌てて、周りを見渡す。しかし、やはり誰もいない。
 きょろきょろとしていると再び声が聞こえる。
 『こっちや、こっち。壁』
 壁? 疑問に感じながらも壁をみる。あるのはやはり、消火栓だけ。
 もしも、喋るとしたら、この四角い穴から覗いている赤い顔くらいだろうか。
 いや、顔と言っても《強く押す》と書かれたボタンが目玉の様に二つ並び、その上に眉の様に《通報ボタン》と書かれたプレートがあって、おまけにその二つの間の下側にある赤いボタンが鼻に見えるだけで。図った様に顔に見えるが、しかし顔に見えただけで、無機物が喋るはずも――『兄さん、久しぶりやのぅ。こんなちっこい頃によう遊んどったの覚えとりまへんか?』
 喋った?! たしかに声はこの顔の様なボタンの集まりから聞こえてくる!
 『いやー人間はほんまに、大きくなるんが早いわー』
 言葉と共に、ボタンの集まりが少し嬉しそうになった気がする。しかし、どう反応すれば。
 悩みつつ、ボタンの集まりに顔を近づけると、また古い記憶が蘇ってくる気がした。そして、手が自然と動く。
 『ギャァァァァァァァァァァ』
 廊下に響く叫び声。
 無意識に俺は手をチョキにすると、そのまま《強く押す》と書かれたボタンを目潰しする様に突いていたのだ。しかも、その叫び声を聞いて自然と笑みが浮かぶ。
 『久々の再開なのに、何しはるんですか?!』
 俺の笑みを見て、ヤレヤレという様に赤い顔は喋る。
 「いや、つい」
 くすくすと笑いながら返事をすると、溜息を吐かれた。
 『あんさんは昔も、ワテの目を押そうとするのが好きやったけど、ワテの叫び声を聞くのはそんなに楽しいでっか?』
 すこし拗ねた様な口調で尋ねられ、若干困る。昔と言われても記憶にない。
 困って沈黙している俺に、赤い顔は再び口を開いた。
 と、いっても本当に口がある訳ではない。
 『やっぱり、あんさんも一緒に遊んだのを忘れとるんか。当たり前やな』
 赤い顔は寂しそうにそういうと、そのまま顔を消火栓の扉から外して、消えてしまった。
 なにか、とても悪い事をしてしまった気がする。どう声を掛ける訳でもないが困っていると、消火栓の扉から、おもちゃのロボットについている様な赤い色の腕がが覗いている。
 『受け取って』
 扉の奥から聞こえた声に俺は慌てて、そのアームに器用につままれたスーパーボールを受け取った。
 なんだか、見覚えのあるスーパーボール。中に大きな星が入っていて、いつも皆に自慢していた気がする。でも、ある日失くしてしまって……
 『よっこらせっと』
 年寄り臭い言葉と共に、四角い穴に赤い顔が返ってきた。
 『覚えとらんやろうけど、それ、あんさんがくれたんやで。宝物ちゅうて』
 懐かしむ様にそう言われても、やはり俺は覚えていない。
 ただ、これが自分のものだったというのはわかる。
 『子供はほんま残酷や。いつの間にか来て、好き放題して、思い出だけ残して、消えて行きはる。そんで、こうやって再会しても忘れとるんや』
 そんな風に言われてしまうと、返す言葉がない。
 『愚痴ってすまんな。まあ、ワテも歳やから……それ、あんさんに返しますわ』
 動かないはずの表情がとても寂しそうに見えてくる。
 「あの……」
 何か声を掛けたくて、声を出した。でも、言葉が続かない。
 『このビル、取り壊しになるんやろ。もう、会う事ないやろな。でも、そのうち、もう少し歳を取りはったら思い出すわ。こんなおっちゃんと遊んだって』
 最後の別れという様な言葉。
 「あの、俺」
 言葉を探す。でも、やはり見つからない。
 視線をさ迷わせていると、下から俺を呼ぶ声が響いて来た。「はーい」とだけ返事をしてスーパーボールをポケットにしまう。
 それを入れたと同時にそこに入っていた、ボールペンと取り出す。
 初めての給料で買った、ちょっと良いボールペン。