あの夜、ユリは馬乗りになったケンの下で懇願してきた。
『お願い。主人には秘密にして。
嫉妬深い人なの。浮気したなんて知ったら、私、殺されちゃう…』
縋りつくような目で、自分を見上げるユリが愛しくなって、ケンは彼女を許す気になった。
『いいよ…その代わり、旦那に内緒で
時々逢おうよ。』
ユリはわずかにうなづいた。
連休開け、美術部顧問の川嶋透が久しぶりに部室にきた。
その時、部室には、ケンしかいなかった。
乱雑に机と椅子が置かれた年中薄暗い部室の中で、窓際の一番ましな席に座っていた。
相変わらず、川嶋はアディダスの黒いジャージ上下を着ている。
「珍しいじゃん。」
ちらっと川嶋の顔を一瞥しただけで、ケンは視線を机の上のトレーシングフィルムに戻した。
カーボン紙を使い、下絵を版木に転写する作業をしているのだが、何もまだ描いていなかった。
下絵のモチーフはユリの横顔だった。
「プロフィール」というタイトルにしようと思っていた。
ずっと取り留めのないことを常に考えていた。
まるで、中毒のようにユリの夢ばかり見る。
裸のユリの夢…
ーそう、ユリは男を狂わすセクシャルなファンタジーだ…
気が散りまくって、版木はまっさらのままだった。
「降矢、一人か。」
川嶋は、辺りを窺いながら、ケンに近づく。
「ああ。
最近、皆、来るのおせーんだよ。」
鉛筆を使いながらケンが答えると、不意に川嶋がケンの手から鉛筆を抜き取った。
「…なんだよ?」
教師のくだらないおふざけに驚きと怒りを感じなから、ケンは川嶋の顔を見上げる。
川嶋は無表情のまま、ケンのまだ新品の鉛筆を両手でばきり、とへし折り、そのまま床へ投げ捨てた。
「…えっ?」
普段、穏やかでお人好しだと思っていた川嶋の凶暴な行為に、ケンは言葉を失い、惚けたように教師の顔を見つめた。