前から琴美の身体を知っていたかのように、降矢の温もりは自然で柔らかく、
肌に馴染んだ。


「こんな場所でごめん…」


終わったあと、とても清潔とは言えないラブホテルのベッドの上で降矢は言った。

「ううん…」

琴美は気怠く答え、降矢の肩越しに向こう側を見る。



一こんな場所に来たのは、何年ぶりだろう…
もう、思い出せないくらい、昔のことだ。



窓のない壁には大きな鏡が張られ、狭く薄暗い部屋の一部を写し出す。


花瓶に入った古びた紅い薔薇の花束。
化粧の剥がれた自分の顔と男の背中。


降矢はもう十七歳ではない。


家庭の話はあえてしなかったけれど、多分彼には妻も子もいる。

自分にも夫がいて、降矢も琴美の夫が誰だか知っている。

それを分かっているのに…



「離れたくない。泊まっていこう。」


暗闇の中、降矢は琴美の髪を撫でながら言った。
琴美は首を横に振る。


「そんなこと出来ない、待ってるから。帰らなくちゃ。」


主語のない、答えを返した後、自分の
心の中から声がした。


ーなら、どうしてここに来たの?


琴美はその声よりも大きな声で答える。



ー無性に、どうしようもなく、触れたかったの。降矢ケンに…



ホテルからタクシーに乗り、自宅から少し離れた場所で降りた。


琴美は、車から降りる間際、

「今でも木版画やってるの?」

と降矢に訊いた。


「…彫刻刀すら、うちにねえよ。」


降矢は後部座席のシートにもたれ掛かり、疲れた顔をして笑った。


タクシーのドアが閉まり、踵を返した琴美は思う。


一昔、一度だけキスしたことも、降矢は覚えていなかったみたい…



凍てつくような夜だった。
琴美はマフラーをきつく結び直す。

時計の針は午前二時近かった。

暗闇から琴美を救い出すように街灯が灯る中、しんと静まり返った住宅街の角を曲がり、少し歩くと、戸建の小さな我が家が見えた。

玄関ポーチにも、窓にも灯りは灯っていなかった。