12年前――。


まだ新任だったころのわたしは、べつだん教師になりたかったわけでもないのだが、社会というものにそれなりの希望をもっていて、無邪気に心を躍らせていた。

わたしの好きなものを、後世というには大げさだが次の世代へと残していけるというこの仕事には、少なからず喜びを覚えていたし当時はやる気に満ち溢れていた。

しかし、蓋を開けばそんなものはわたしが勝手に抱いていた幻想なのだと思い知らされるのにそう時間はかからなかった。

特になんの取り柄も持たない平々凡々なわたしはあっという間に生徒達に舐められて、わたしの授業を真剣に聴いてくれる生徒はすぐいなくなった。

その結果、当然成績が下がれば上司にしかられ保護者たちからのクレームを受け、わたしの中には膨大なストレスだけが蓄積されていった。

不安定な心の中で塔のように積み重なったそれが崩れ去るのは時間の問題で、あとちょっと積み上げればきっとわたしの心ごと瓦解していただろう。

わたしは崖っぷちのすぐ傍まで追い込まれていた。

そんなときに出会ったのがあの人だった。

彼はわたしの心の中のそれを優しくきれいさっぱり取り除いてくれた。

そして一緒に崩れそうだった心をしっかりと支えてくれたのだ。

わたしを救ってくれた英雄と表現してもそれは誇大ではなく、わたしを導いてくれた宣教師といってもそれは大袈裟でなく、わたしの闇を照らすたった一つの太陽といってもそれは過言ではなかった。

彼の名前は藤原唯人(ふじわらゆいと)。25歳になったわたしが担任を受け持っていたクラスの生徒だった。

はじめはもちろん高校生などに恋心を抱くわけもなかった。

わたしは唯人の先生で、唯人はわたしの教え子だった。

その関係が変わることはないと思っていた。

唯人は乱暴な子どもで他の生徒からは距離を置かれていた。

もちろん問題ばかり起こすこの生徒に教師達も手を焼いていた。

そんな生徒が新人のわたしに押しつけられるのはよくある話だ。

そんな唯人が退学処分にならなかったのは、ひとえに唯人の成績が学年でもトップクラスだったからだろう。

煙たくてもむやみに振り払わないのは、そんな大人の事情からだ。

それは生徒を思いやってのことではない。

きっと唯人にはそんなことお見通しだったのだろう。

唯人はだんだんと学校に来ることが少なくなっていった。

登校拒否の生徒など初めての経験でわたしはどうしていいかわからなかった。

とりあえず先輩の先生の言われるとおりに、わたしは唯人の家を訪ねた。

そしてそこで唯人が複雑な家庭に育っているということを知った。

わたしが訪ねたとき唯人は弟や妹の子守をしながら、掃除や洗濯や夕飯の支度といった家事をすべて一人でこなしていた。

父親はずいぶん前に愛人をつくって家をでたきり戻らず、母親は毎日遅くまでパートに出かけている。

まだ幼い弟二人と妹一人の世話をするのは唯人の仕事だった。

唯人はもともと学校を辞めるつもりだったらしい。

というのも高校を卒業しなくても大学に行けるということを知らなかったのだ。

しかし、それがわかって彼はわざわざ授業料を払ってまで高校にいかなくても自分の努力しだいでなんとかなると考えたのだ。

唯人が見せてくれたノートはすでに学校の進度のずいぶん先をいっていた。

家事の隙間の少ない時間や、夜寝る時間を削って勉強しているにも関わらずだ。

それもこれも家族のことを考えてのことで、本当の彼を知ったときわたしは思わず彼の前で号泣してしまった。

まさか家庭訪問で生徒に慰められることになろうとは。

唯人は誰よりも優しく、そして不器用だったのだ。

父の愛情を受けてこなかったせいか、人とうまく付き合うのが苦手だった。

それでも唯人が振るった暴力には理由があった。

決して自分のためだけに振るう拳ではなかったのだ。

ただうまく表に出せない感情が爆発してしまっただけだったのだ。

家庭の事情から大人にならなくてはいけなかった少年は、それでもやはりそういう部分は子どもなのだ。

生徒の前で号泣してしまったわたしが言うのもどうかと思うが。

だが、それがきっかけで唯人がわたしに心を開いてくれたのだから、その涙も無駄ではなかった。

結局唯人は学校を辞めてしまったのだが、それからもたまにではあるが唯人とわたしは会って話をするようになった。

だんだんと唯人に惹かれている自分を感じ始めたのもこの頃だった。

そしてどうやら唯人も同じようにわたしに好意を抱いてくれたらしい。

そこからわたしたちが恋に落ちるのはすぐだった。

唯人との秘密の逢瀬を重ねるたび、わたしはどんどん唯人のことを好きになっていった。

堪らなく幸せだった。

時が止まればいいと本気で思った。

永遠にこんな時が続いていけばいいと願っていた。

そんな幸福の絶頂で、事件は起こった。

唯人とわたしのクラスの生徒が諍いを起こしたのだ。

その生徒たちはわたしと唯人を偶然街で見かけ、その関係について唯人を言及し、あまつさえそれを盾に脅迫をした。

唯人が手を出さないはずはなく、その生徒たちは大怪我を負った。

わたしの立場では唯人を庇うこともできず、誰も唯人の言い分を信じるものはいなかった。

もちろんわたしと唯人の関係も公となり、学校側からこれ以上の関係を続けることを禁じられてしまった。

思えばこのとき、わたしはどうして唯人を全力で庇うことができなかったのだろう。

どうして学校に背いて唯人に会いにいかなかったのだろう。

唯人を失うことより怖いものなんてなかったのに。

わたしはそれをわかっていなかったのだ。

唯人に出会って変わったと思っていたの自分は勘違いでしかなかった。

わたしはしっかり自分の保身を考えてしまう黒い社会の歯車でしかなかったのだ。

唯人を失うことでわたしは改めてそのことに気がついた。

それでものうのうと今も教師を続けているのだから我ながら可笑しな女だと思う。

唯人はそんなわたしにきっと失望したのだろう。

傷ついたのだろう。

それからわたしと唯人が会うことはなかった。

いつぞや通りかかった唯人の家は空き家になっていた。