「おはよう」
不意に“猫”の声に現実に引き戻された。
目の前のベッドで、くしゃくしゃに髪の毛を乱した彼が、眠たそうに欠伸をしていた。
「おはよう」
短く返すと、彼は嬉しそうに笑う。
本当に、嬉しそうに。
「そういえば、名前、聞いてなかったね」
彼女の言葉に、彼は少し考え込む様な素振りを見せたあと、ふわりと笑った。
「何て名前だと思う?」
笑顔のままで尋ねられても、そんなこと解るはずもない。
彼女は困った様にコーヒーカップを抱えたまま、彼の顔を見つめた。
「わかんない」
素っ気無く答えると、とても残念そうに彼は笑った。
「じゃあ、つけて」
気まぐれにじゃれついてくる、まるで本当の猫の様に。
彼はそう言って笑った。
「…変な人。本当に猫みたいね」
彼女は少し考えたあと、柔らかく微笑んだ。
「フェリクス」
彼女が名前を呼ぶと、彼は少しだけ驚いた様に目を見開いた。
―…寂しそうに笑う貴方が、少しでも幸せであれば。
そう思っただけだった。
ただ、それだけだった。
「そういえば、このコーヒーあなたが淹れたの?」
彼女の声。
フェリクスは微笑みながら頷いた。
まるでゴロゴロと喉を鳴らしながら、得意げに尻尾でもふっていそうな様子に彼女も少し微笑んだ。
「ありがとう、おいしいよ」
「うん、よかった。おねえさん、一人暮らしなの?結構広いけど…この家」
どこか遠慮するように紡がれる言葉に、彼女は顔を逸らしながら小さく頷いた。
―そう、もう今日からは、一人で住むはずだったのだ。
「…ねぇ、名前なんて言うの?」
フェリクスは人懐っこい顔で、既に先ほどの会話には興味もない様に聞いてくる。
彼女は今気がついたかの様に顔を上げると、フェリクスの傍に歩いて行きながら口を開いた。
「レア」
「レアかー。かっこいい名前だね」
「そう、かしら」
彼女…レアは曖昧に笑うと、ベッドに腰掛けた。
「あ、そうだ…ねえ、昨日はなんだかんだでバタバタしてて、着替えもまだだったわね。ちょっと待ってて」
今しがた座ったばかりだというのに、レアは立ち上がると部屋の奥を目指した。
確か、まだあったはずなのだ。「彼」のものが。
使う相手がもう居ないのなら、与えてしまってもいいのだろう。