孤独の戦いと限界


『!、いつつ‥』

剃刀を取り出し、手首に切れ目を入れる。鋭い痛みが身体中を走り、一瞬の痛みがとても長く感じた。

『すごい、な…』

吹き出る…‥
凄い勢いで…‥

腕が別物になったように、真っ赤に染まっていく。

『………』

アハハ…、この体ともお別れか、今まで本当にご苦労さま。

失恋以来、俺は常人ではなかった…。
本ばかり読みあさっては、のしかかる過去の失恋の意識を、他へ逸らしていた。

マンガではないが、俺は死に場所を探していたのかもしれない。

大木に背中を預けて、天に帰る時を待つ。

『せなか、か…』

俺を最後まで、背中を後押ししてくれた人…。

恵理…

力尽きる前に一言、お礼を言いたい…
ムダになったのは、俺としても無念だが…

《P.P.P.…》

朝早くに怒られるかな…、でもそんなのどうでもいい。

そんな些細な事を、真剣に考える余裕もなくなっている。

『P』

『………』
『………』

『………』
『藤ですが、朝早くに何か?』

『…、宮川、です』
『あぁ、なんだ宮川か。こんな早くにどうしたんだい?』

『恵理は、いますか?』
『…、寝てるが‥』
『代わって、下さい…』

『‥大丈夫なのか、ひどく疲れている様に感じるが…』

『藤先生‥、早く恵理に…』

『………』

『フゥ…、フゥ…』

少し呼吸が乱れてきた。流れ行く出血のせいだな。

…‥


『早いね優助君、おはよ〜♪』

『えり‥、朝早くにごめん‥』

『!、どうしたの?』

『…なにが?』

『声を聞いただけで、相当疲れている様に聞こえるけど』

『………』

恵理の声を聞けるのは、最後になるのかな…

…‥


何を話せばいいか解らず少しの間、無言状態が続く。


『………』

『優助君?』

『…、えりと約束した、禁酒令を、破った』

『もう、駄目ですよ』

『…ごめんえり。俺、ホントに、駄目人間だね。ごめんね…』

『…ちょっとおかしい、どうしたの?』

俺の涙声混じりに、恵理は緊迫感を持ち始めたようだ…。

『何かあったの?』

『う、うん…』

『何があったのですか?』

『…、‥、と‥、友美が…、友美が…』

『友美さんが?』

『…、と、友美に‥、彼氏が…、か、彼氏が…、‥かれしが‥』

『えっ!?』

静かに涙を流す‥。
背後に迫る死が、俺にある自制心を取り払う。

それにしても心を裸にするのが、こんなに気持ちいいとは思わなかった…。


『…うぅ…、…っ…‥、…くっ…っ‥』

『…、優助くん』

『‥うぅ…、どうして…、どうして‥‥』

涙が止まらない‥
呼吸困難になるほど、しゃっくりを繰り返す。


『悲しくて、苦しくて、でも、誰も理解、してくれる人がいなくて‥』

『………』

『こんなに苦しいのって、俺の人生は、どうなってるんだよ。世の中には、とっかえひっかえ、八方美人がいるのに、俺には失恋しかないのか!』

『………』

『…ごめん、取り乱しちゃった』

『気にしないで、優助君の悲しみは凄く伝わるわ』

『えり‥』

『気にしないで、愚痴でも相談でも聞くから♪』

『………』

どこまで優しいんだ、恵理は…

『えり…、その優しさは友達に向けるべきだ…。俺みたいなバカなんて…、忘れて他の人に‥』

『尽くし尽くした彼女だもんね。後先見失うのは恥でもなんでもないんだよ』

『聞いて、えり…、俺なんて‥』

『今、必要なのは心のケアだよ。余計な事は一切考えないで』

俺がヤケになってるのを見透してか、会話の介入を許してくれない。


『聞いて、俺は…』

『優助君には私がいるわ。大丈夫だから安心して』

『あ‥』

そのセリフ、いつか俺が彼女に使って励まそうと思ってたが、励まされる側になるとは…。

神様も最後に、皮肉なマネをするもんだ。

『安心して♪』

『………』

『大丈夫だから、安心して♪』

『………』


女性には、これほど人を励ます優しさが備わってるんだな。
本来の女性の魅力とは、こういうものじゃないだろうか。本当に落ち着く…。

…‥


暫くの沈黙に、ようやく口を開く。

『そっか…』

『そうです♪』

『!、うっ…』

『?』

流れ行く血が、どんどん生命力を奪っていく。
強烈な貧血が襲う…


『大丈夫?、しんどいの?』

あまり無駄話は出来ないな…。


『でも、えり…』

『何ですか?』

『この、悲しみは、受けた本人しか解らないんだ』

『解ってる、優助君しか…』

『許してくれ、とは言わない』

『許すも何も怒ってないよ。何を許すの?』

『‥俺、もうダメ、なんだ』

『ダメ?』

『そう、ダメ、だから』

『ダメって?』

『‥ダメ、なんだ…』

『………』

俺は恵理の励ましを無駄にするのかな‥


『…、えり…、っ!』

『優助君?』

痛みを味わう様な苦しみが襲う。
地面にうずくまり、歯を食いしばり苦しみに抵抗を試みる。


頭から血が引き…
手足が痺れ…
意識が朦朧とする。

『くっ…、うぅ…、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ…』

『優助君、大丈夫なの!?』

苦しみのあまり、手から離れた携帯から、緊迫した恵理の声が微かながら聞こえる。

『何でも、ないよ…』

『何でもない訳ないよ、どうしたのよ?』

『…、えり…』

『なぜそんなに苦しんでるの?』

ごめん、余計なお喋りしたくない‥。
いつ俺の生命線が切れるか解らないから。

少しでも楽な体勢がとれるように、携帯を地面に置いて、体を横にした。

『俺、えりの事、好きだったかも…』

『…、…‥』

『友美への、嫉妬で耐えぬく時、俺の事に真剣だったから、えりの想いが居着いた』

『私は、別に…』

『嬉しかった…』

『私は‥』

『優しかった…』

『………』

『それから、えりの想いが…、っ、うっ…』

『優助君!』

ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ…‥


『ハァ、ハァ、ハァ…‥』

『優助君っ!?』

く、苦しい…‥

…‥


『…‥、‥…』

ここまで身体に力が入らないのは初めてだ。
痺れが体中に回り始めている。


『終わり、か‥』

携帯は俺の名前が、連呼されている‥、気がする。

『優助君、返事して!』

『え…、り‥』

『…どうしたの、どうしてそんなに声が枯れてるの?』

『…えり、…っ‥』

ゲホッ、ゲホッ…‥

…‥


ゲホッ、ゲホッ…‥
ハァ、ハァ、ハァ…‥


『ちょっとしっかりして!』

も、もうダメかも…
尽きてしまいそう‥

下唇をギュッと噛んで、最後の生命力を絞り出す。


『え…、り…、頼‥みが…』

『今度聞いてあげるから、もう話さないで』

『…嘘で、いいから…、好きって、言って…』

『えっ…』

『…理由は、聞か、ないで』

『………』

『…お願い、え、り…』

『………』

『ハァ…、ハァ…』

『…好きです』

ありがと…、恵理…
最後に最高の、冥土土産ができた。


『今日はお見舞いに行くから、ゆっくり休んでね』

『…お葬、式は、しない、様に、頼んで…』

『…今の優助君が言うと少し恐いよ』

体中の力が失い、聴覚も失い始めた。

でも、少し楽になった。
苦が反射して楽を、正確にはマヒを感じてきた。

俺は最後に、自分の今までの恋愛にありったけの皮肉を込めた。

『こ、こんな、はずではなかった』

『えっ?』

『俺は純粋に、恋愛を、楽しみたかった…。それだけなのに…』

『優助君、私が幾らでも励ますから…』

『失恋で、のたうちまわり、最後に手首を切って、自殺を、選ぶ事になるとは…』

『……、ちょっと!!、今もしかして!!』

『結局、俺は自分の愛情豊かさが、仇になったんだ。…ちくしょう』

『優助君っ!!、まさか切ったの!?』

『えり、俺も好きだよ』

喋ったつもりが喋る事が出来なかった。
もう口パクでしかなかった。話す力すら尽きた…


『優助、君?』

『………』

視界も聴覚も、話す力さえも尽きた。

俺…、死ぬんだ…
流石に恐く感じる‥
この決断で良かったのだろうか‥


『返事して!、今何処にいるの!?』

『………………』

『優助君!』

………
……『優助君!!』