オレンジ

「…え?」

見上げると、彼は笑っていた。
向かって左側の口角だけがあがる、意地悪な笑い方は、初めて見るそれだった。

「びっくりした?」

幅の広いダメージデニムのポケットに両手を突っ込んで、あたしを見つめながら彼は首を傾げた。


「…なんつって」


そう言うと彼はまた前に向き直り、歩き始めた。

『なんつって』って、なに?
どういうこと?

「…うそ」


あたしの小さな呟きは、大きな歩幅であたしからぐんぐん遠ざかる背中には届かず、夜の闇に溶けた。


わからないことだらけだ。
なにもかも。

彼の意思、目的、言葉の意味。
わからないから、知りたいと思う。
確かめたいと思う。



彼が本当にあたしのストーカーだなんて、もう今更思うことはできなくなっていた。

ストーカー被害になんて遭った経験はないから、実際のところはどうだか知らない。
けれど、今この状況。
殆ど人目のない、シャッター街に2人きり。
何かしようとしたらどうにでもできる、こんな状況で、危害を加えるどころかあたしに指一本すら触れようともしない彼
が、ストーカーであるわけがない。

そう思った瞬間、あたしは走り出していた。

たぶん、脳からの指令が神経を伝わるよりも早く、あたしの気持ちが、両脚を動かしていた。
走るなんて、いつ以来だろう。

「待ってくださ…待って!!」

今度はちゃんと聞こえるボリュームで言った筈なのに、彼は足を止めず、振り向きもしない。

「待ってってば…!」

赤いチェックのネルシャツの背中に向かって、あたしは叫んだ

「あっ、」