幸せまでの距離


樋口の言うことは本当だった。

大学時代、今井は、マユミとの間に自分 の子を授かった。

だが、互いに大学生で生活能力も無く、 親から養育を受けている立場だったた め、話し合いの結果、早い段階で堕胎す ることを決意。

その際、すでに社会人だった樋口が、手 術費用を今井に貸しているが、いまだに マユミや両親達はそのことを知らない。

人工妊娠中絶手術のことは、双方の親が 知ることとなった。

マユミの父親は激昂し、マユミと今井の 交際を反対し、血が止まらなくなるまで 今井を殴った。


しかし、二人は別れることなく、時は流 れ、結婚することになった。

結婚生活も6年目になる現在、今井夫妻 に子供がいないのは、夫婦の贖罪(しょ くざい)の意識ゆえだった。

自分達の都合でひとつの命を消してし まった、事の重大さ。

安易に性行為をし、快楽に理性を失って いたことの後悔。

それは、日が経って忘れられるものでは なく、日毎に胸を苦しめることになっ た。

自分達がこの世に生まれてきた奇跡を深 く認識することで、より、大きな罪の意 識となっていく……。

望めば、子供が授かれる今井夫妻。

だが、あえて、その選択はしなかった。

代わりに、猫…シェルを飼うことにした のだった。

まるで、今井夫妻から罪を償う機会を奪 うかのように、樋口はシェルを欲しがっ た。


「頼む、樋口……。

許してくれ……。

過去を忘れたわけじゃない。

でも、幸せになりたいんだ……」

ぐったりしたシェルを抱きしめ、今井は 正座し頭を下げたが、それは樋口の怒り や反発心を煽(あお)るだけだった。

「あーあー。出たよ。

お前のお得意、『被害者面』。

見ててイライラするな、相変わらずよ。

お前は、昔っからそうだったな……!」

樋口は今井の髪をむしるようにつかみあ げ、持ち上がった彼の体を床に投げ捨て た。

シェルを抱いたまま、今井は床に横たわ る。

その目は、あきらめと絶望を映し出して いた。

「樋口、許してくれ……。

俺が悪かったのは認める。

でも、必ずマユミを幸せにするから、同 じ失敗は繰り返さないって約束するか ら、頼むよ、頼む……」