『いいですよ』

玲はニッコリ笑い、モーヴ色の制服のスカートのポケットから、紙のコースターを取り出し、自分のアドレスを書きつけた。

飲み会帰りにお茶に寄ったのだろう、と玲は思った。

声を掛けてきた男は素面に見えたが、酒気の抜けない女たちは悪ふざけをしているようだった。


『ありがとう。助かるよ』

玲のアドレスを書いたコースターを受け取った男は、嬉しそうに言って女たちのテーブルに戻って行った。

男が戻ると、女たちは賑やかな歓声をあげた。

『やるじゃん』

1人の女が男の肩を叩いているのを見て、玲はくすり、と笑った。



日付の変わらぬうちに男から、メールがきた。


[さっきは驚かせて、すみませんでした。でも、おかげで助かりました。
僕は内海豊といいます。
看護師してます。
一緒にいたのは、同じ病棟の同僚です。今度、僕1人でラウンジに行ってもいいですか?迷惑じゃなかったら、の話ですけど。貴女の出勤してる日を教えてもらえませんか?]


絵文字が散りばめられた賑やかなメールだった。


自宅のベッドの中で豊からのそれを読んだ玲は、チラッと横目で隣のベッドで寝ている夫の佳孝をみた。


佳孝はもう、寝ていた。

少し口を開けて。
軽いいびきが漏れていた。


へんなタイミング……
玲は苦笑した。

さっきまで、佳孝に抱かれていた。

三ヶ月ぶりに。

拒否はしなかった。


三ヶ月前の未遂に終わった行為中のことなど、なかったように。

(もう、愛なんかないクセに…)
佳孝の身勝手さを心の中で責めながら。



三ヶ月前ーー
結婚3年目の秋。


玲との夜の営みのクライマックスで、佳孝は『まゆみ…!』と呟いたのだ。


『まゆみ?』


聞き逃さなかった玲は、ぱっと目を開け、身体の動きを止めた。

素早く佳孝を押しのけ、上半身を起こし、電気スタンドの灯りを付ける。

佳孝は明らかに狼狽していた。


『まゆみって!?』

玲は佳孝を睨み付け、語気鋭く言った。

『ええ?俺、言ってないよ…』
佳孝の目が泳ぐ。

『嘘!まゆみって言った!』
玲は枕を佳孝の膝に叩きつけた。

玲の剣幕に佳孝は黙り込み、俯いた。


『誰なの、まゆみって…?』

問い詰めながら、玲は佳孝が上手い言い訳をしてくれることを願っていた。

佳孝はベッドから降り、落ちていたトランクスやシャツを拾い、身につけた。


そして、玲のいるベッドに腰掛け、自分自身を落ち着かせるように、溜息を一つ付いた。


佳孝は、玲の方を見ずに言った。


『実は俺、好きな人がいるんだ…』


玲はあまりにも衝撃的な夫の告白に、絶句した。


二人の愛の巣のはずのこの家で、佳孝は恐ろしい呪いの言葉を吐いた。

スタンドの灯りしかない暗がりのベッドルームで、佳孝は悪魔になった。


玲はただ、呆然と佳孝を見詰めた。

『玲に嘘はつけない。
俺は誘惑に負けたんだ』


佳孝は苦悩している。

誰かを本気で好きになってしまったが為に。

それがわかった途端、玲の目から涙が流れ落ちた。

『……』

何か言おうとしたが、口の中がからからに乾き、声が出ない。