まだ夏のような暑さが続いているのに、日が暮れると、秋の虫が一斉に鳴き出すようになった。

マンションの四階でも窓を開ければ、虫の声はよく聞こえた。



佳孝はいつもの時刻に帰ってきた。

リビングに入ってくるなり、佳孝は言った。

「ただいま。この匂いってシチュー?」

「違うよ。ビーフストロガノフ」

玲はキッチンから答える。


佳孝は、ダイニングテーブルの自分の定位置に腰を下ろし、テレビのリモコンをかざしてテレビを付けた。


夜のニュース番組が始まった。

テレビがついているのに、佳孝は自分のスマートフォンをいじり出す。

ツイッターをしているというだが、玲はツイッターに興味がなく、面白さがよくわからなかった。

「今日は仕事休みだったから、パン焼いたけど、ご飯もあるよ。どっちにする?」

グラスに麦茶を注ぎながら、玲は気付いた。


スマートフォンの操作をする佳孝の左手薬指に結婚指輪が戻っているのを。


佳孝がスマホに視線を落としたまま、ご飯にする、と答えたあと、玲は言った。

「指輪、あったんだ。良かったね」

「うん」
佳孝は短く言うと、玲のほうをじっと見た。

「佳孝、どうしたの?」

一瞬の間のあと、佳孝は言った。


「来週、社員旅行なんだ。
今年は石和温泉だって」


毎年、九月半ばに佳孝の勤務先の教習所では、社員旅行があった。

酒はあまり飲めない佳孝だが、賑やかな席は嫌いではなく、会社の飲み会には欠かさず参加していた。

行くと二次会、時には三次会まで付き合ってしまう。

1人、家でひたすら夫の帰りを待つ玲は淋しくて仕方なかったーーー豊と付き合いだすまでは。

「そう。飲み過ぎないでね。私も
咲のところに遊びに行こうかなあ」

トレイに載せた熱いビーフストロガノフの皿を佳孝の前に置き、玲は機嫌良く言った。

佳孝はテレビに視線をやったまま、何も答えなかった。


社員旅行が嘘ではないことは、わかっている。

佳孝は旅行中、玲のことを思い出すことなどないだろう。


一見、思慮深そうに見えて、佳孝は誘惑に弱く、享楽的な男だということは二年前に佳孝自身が告白したことだ。

佳孝はその場の雰囲気を楽しみ、隣に女がいたら、ノリでその女の肩を抱くーーーそれは不実というのだろうか。

普通の妻なら夫を責めるか、じっと耐え忍ぶかだろう。


玲はどちらでもなかった。
享楽的なのは、玲も同じだった。


佳孝が風呂に入っている間に玲はサトルにメールを打った。

来週、夫が旅行に行き不在なので、逢いましょうと。


玲は9歳年下の若い男と逢う約束をするつもりだった。