2012年8月17日 午後12時37分
国立天文学研究所 食堂



「……この発見は従来のタンパク質の性質と異を成すものであり……」

テレビから流れてくるアナウンサーの声を右から左へと聞き流し、無音は独り、食堂で論文誌を読んでいた。
休暇を取る職員が多い時期であったため、普段は込み合う時間帯の食堂に人はポツポツとしか居なかった。
多少の喧騒があった方が物を読む際には集中できる質であった彼は、昼休みが終わるまでそこで時間を潰すつもりでいた。

「やぁ。昼時間も勉学に勤しむとは。誠に勤勉な事だ」

無音が雑誌から目を離すと、そこにはトレイを持った上司の桐山が立っていた。
いかにも学者らしい、寝癖に無精ヒゲという普段通りのズボラな居出立ちであった。
しかし、眼鏡の奥の目元にはくっきりとクマができあがっている。

無音が軽く会釈をすると、桐山は「失礼するよ」と一声かけ、向かいの席に座った。

「休暇を取るやつが多いこの時期に、しっかりと研究を行うとは。感心感心。」

そう言って、桐山はかき揚げ蕎麦をすすり始めた。

「ただシミュレータを走らせて、結果吐くの待ってるだけですけどね」

無音はハハハ、と自嘲気味に笑って答えた。

「それを言うなら桐山チーフだって。クマ、すごいことになってますよ」

「あぁ、論文の締め切りが近いからね。昨日もロクに寝てなくてなぁ」

なるほど、朝から姿を見なかったのはそういう事か。大方、朝日が昇るまでパソコンに齧りついていたのだろう。
そして、軽い仮眠を取るつもりが、昼近くまで寝てしまっていたと。
まるで学生と変わらない上司の生活パターンに、無音は呆れて笑みをこぼした。

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「そうだ無音君、君に頼みたい事があるんだった」

無音が再び論文誌に目を落としていると、いつの間に食べ終わったのか、桐山が声をかけてきた。

「…頼みたい事ですか?」

良い予感はあまりしない。
こういった頼み事というものは、やれ「○○学会の発表に行ってこい」だの「研究会に参加してこい」だの、およそ面倒な出張を任されることが多い。
そして大体の場合、事前の準備に時間を割かなければならない事が多く、それだけで自身の研究に費やす貴重な時間が奪われるのである。
国の研究機関として、しっかり活動している事を対外的に示す、いわば外交の様な仕事である。
名目として「様々な知見を得るために」と掲げているものの、誰しも単なる「雑務」として認識している。

「…自分ができる事なら」

無音は内心ため息をつきつつ、そう返事をした。
桐山はそんな無音の心情を悟ってか、苦笑いしつつ続けた。

「今回はどこぞに行って発表してこいのとか、そういった類のものじゃないんだ。心配するな」

「え?」

では、何を頼まれるというのだろう。
半分喜び、半分疑問に思いながら無音は尋ねた。

「それじゃあ、自分は一体何をするんですか?」

「あぁ、やってくれるのか。ありがとう」

…まだ返事をしたわけではないぞ。
もっとも、年次の若い自分には拒否権など存在しえないのだが。

桐山はカバンからタブレットPCを取り出しつつ、無音に告げた。



「君には、与那国へ向かってもらう」