では、と男がこちらに背を向け、数歩歩いた。横で女房が「姫さま、よかったのですか?」などといってくる。
好意に甘えましょう、と返していると、男が振り返った。
「ひとつだけ、聞いてもいいだろうか」
「な、何でしょう」
「貴方の名は?」
男は私に名前を求めた。正直困った。男は「姫君でもいいんだが」というから「藤」と答えた。
女房が私を横目で批難しているのがわかる。
名前も知らぬ男に自分の名を教えたのだから無理もない。だが仮にも部屋を貸してもらうのだ。このくらい、どうってことはないだろう。
「ではこれからは、藤の君と呼ぼう」
男はふっと微笑んだ。
そして今度こそ、こちらに背を向け歩いて行った。


