『立花の名』
昼間、賑やかな楓音の花街は、夜になると大人の世界がやってくる。
太陽が輝く時間はお祭りの屋台がずらっと並び、大人や子供までが品定めを行う。
しかし、夜は全くの別世界となる。
売られた子供や遊女たち、世界から捨てられた人々が唯一輝ける場所。
風優は、近所に住む七つ年上のフェーブという青年に連れられ、花街に来ていた。
桃色の提灯が冷え切った町の屋台にいくつも並び、檻のような小屋が店前にちらほらと出されている。
客呼びの狐の面を被った男性が笛を吹きながら、花街の通りを行き来していた。
「本当に夜は冷えてるのぅ……。寒いか?」
「寒くない」
風優は出かける時に、小春から貰ったマフラーをフェーブに見せた。
彼は小さく笑って、「そうかそうか」と風優の頭を撫でる。
風優は彼のそういう所が好きだ。
火傷を負ってふさぎ込んでた時も、彼はいつもと変わらずやってきて、風優の好きそうな玩具を置いて行ったりもした。
誰とでも話し、人で態度を変えずに、どんな時でも気軽に話しかけてくれる。それが、風優の知るフェーブだ。
「小春さんは気が利くんじゃな。良い嫁になるのぅ」
「小春は自分より弱い人とは結婚しないって」
「ははは、通りで最近道場が人気なんじゃな。楓音の道場が賑わっておるんじゃ。そうかそうか、小春さんがそう言ったからか。どうじゃ、風優。最近は元気か?」
「ん」
小さく頷けば、暖かな手がすっと離れていった。
少しだけ寂しく思う反面、子ども扱いをまだしているという複雑な思いもある。
「なあ、どうして夜に花街なんて……。小春にばれたら、怒られる」
「ちーっとした、勉強じゃ。勉強」
「そんな勉強あるのかな……」
にこにこと微笑みながら風優の横を歩くフェーブ。
しかし、彼がぴたりと足を止めた事に気が付き、風優も歩くことをやめた。
「フェーブ兄?」
風優は不思議そうにフェーブへと視線を見やる。彼は少しだけ嬉しそうな顔をして、その店を見ていた。また、彼に習うように風優も店に視線を移す。
黒い瓦屋根に、平たい宿のような店だった。桃色提灯が玄関左右に二つ並び、玄関戸の上には松風と書かれた木の装飾が施されている。
「ここじゃ! 松風の里」
「松風の里?」
「そう。風優、入るがいいかのう?」
風優はこくりと小さく頷いた。大丈夫、蒼守がくれた眼帯がある。
顔を人に見られても、へっちゃらだ。そう心に強く決め、つけていた眼帯をそっと抑えた。
フェーブにつれられられるように引き戸を開き、入った店。
人が十五人程入れる広々とした玄関は靴の脱ぐ所があり、その左右には大きな下駄箱が置かれている。
二人は下駄箱に脱いだ靴を入れて、さらに先へ進む。
「ねえ、フェーブ兄。ここは何のお店?」
「んー。子供が知るにはまだ早いかのぅ?」
にんまりと怪しい笑みを浮かべるフェーブに風優は口を尖らせた。
「俺だって、今年で十五だ!」
「ほえろほえろ、子供の戯言~!」
「フェーブ兄の馬鹿っ!」
風優が今にでも歌いだしそうなフェーブを怒るが、見えてきた廊下の薄暗さに黙り込む。
廊下は静まり返っている。何処となく、冷たさも感じた。左右は障子で閉め切られており、少しばかり居心地の悪さすら感じるのだ。
どれぐらいの距離をまっすぐ歩いただろうか。時間にしてみると、一分、いやそれ以下かもしれない。
ただ、居心地の悪さのせいか、時間はさらに長く感じた。
「フェーブ兄……」
「ん、ここじゃよ」
突き当りの障子をフェーブが迷いなく開いた。
すると、どうだろうか。先ほどの暗さはどこへやら。見えてきたのは淡い蝋燭の灯。そして、老人と男性だった。
二人は袴を着ており、二人の姿を見た瞬間、深々と頭を下げる。突然の事に理解できない風優は思わずフェーブの方に視線をやった。
「風優はあのおじいさんと一緒にいてくれんか? 少ししたら迎えに行く」
「え……何か難しい話でもするのか?」
「ああ、そうじゃな。少しだけじゃ」
少しだけ寂しそうに笑ったフェーブに、風優は小首をかしげた。
風優は颯爽と歩き出した老人を見て、彼の後についていけばいいのかと納得する。
「わかったよ。フェーブ兄」
「すまんの。用事が終わったら迎えに行く」
風優と老人が去った後の部屋。二つの足音が消えていったのを確認し、フェーブは目前の男性を見た。
その瞳は先ほど風優を見送ったものとは全く別物。冷たい刃物のようなものだった。
「北条殿、立花家から何を言われたか解らんが、わしにはあの子をやる事ができん。いくら積んだ?」
北条と呼ばれた男性はふっと小さく笑んだ。しかし、その笑みはどことなく歪んでおり、慌てて作ったものだと知れた。
「私は立花家の主人にお願いを申しただけです。養子の話を申請した結果、快く引き受けてくださったのは、立夏家の方です」
フェーブは目を少しだけ細くなる。
「それに、あなたも解っているはずだ。北大陸では今でも妖精と人間の戦争が続いていると。いずれは、この大陸にもやってくる。あの暴れている竜たちを鎮めるためには、立花の力が必要だ」
男性は感情を露わにし、歯をむき出しながら続ける。
「あの子が、世界を救うのです」
「……命を張ってか?」
フェーブの呆れたような言葉が、部屋中に響いた。
「馬鹿らしい。確かに立夏は封印を主とする一族だ。だが、それを一人に押し付けて良い問題ではない」
「しかし、このままでは……!」
なお、食いつこうとした男性めがけて、フェーブは札束を彼の顔面めがけて投げつけた。
面を食らった男の顔に、フェーブは冷笑一つ浮かべる。
「わしが彼を面倒見る事になった。そいつは返してやる。人の命は金では買えん」
「き、貴様……!」
「わしは兄貴じゃ。あいつの。面倒見るんは当たり前じゃ。お前らとは違う」
颯爽と立ち上がるフェーブ。男は苦虫をつぶしたような表情で、彼が出ていくのをずっと見ていた。
一方、廊下を出たフェーブは、大きなため息を一つ零す。
「風優、お前はどちらを選ぶんじゃろうか……」
それを応える者は誰もいなかった。
『フェーブ兄』終
昼間、賑やかな楓音の花街は、夜になると大人の世界がやってくる。
太陽が輝く時間はお祭りの屋台がずらっと並び、大人や子供までが品定めを行う。
しかし、夜は全くの別世界となる。
売られた子供や遊女たち、世界から捨てられた人々が唯一輝ける場所。
風優は、近所に住む七つ年上のフェーブという青年に連れられ、花街に来ていた。
桃色の提灯が冷え切った町の屋台にいくつも並び、檻のような小屋が店前にちらほらと出されている。
客呼びの狐の面を被った男性が笛を吹きながら、花街の通りを行き来していた。
「本当に夜は冷えてるのぅ……。寒いか?」
「寒くない」
風優は出かける時に、小春から貰ったマフラーをフェーブに見せた。
彼は小さく笑って、「そうかそうか」と風優の頭を撫でる。
風優は彼のそういう所が好きだ。
火傷を負ってふさぎ込んでた時も、彼はいつもと変わらずやってきて、風優の好きそうな玩具を置いて行ったりもした。
誰とでも話し、人で態度を変えずに、どんな時でも気軽に話しかけてくれる。それが、風優の知るフェーブだ。
「小春さんは気が利くんじゃな。良い嫁になるのぅ」
「小春は自分より弱い人とは結婚しないって」
「ははは、通りで最近道場が人気なんじゃな。楓音の道場が賑わっておるんじゃ。そうかそうか、小春さんがそう言ったからか。どうじゃ、風優。最近は元気か?」
「ん」
小さく頷けば、暖かな手がすっと離れていった。
少しだけ寂しく思う反面、子ども扱いをまだしているという複雑な思いもある。
「なあ、どうして夜に花街なんて……。小春にばれたら、怒られる」
「ちーっとした、勉強じゃ。勉強」
「そんな勉強あるのかな……」
にこにこと微笑みながら風優の横を歩くフェーブ。
しかし、彼がぴたりと足を止めた事に気が付き、風優も歩くことをやめた。
「フェーブ兄?」
風優は不思議そうにフェーブへと視線を見やる。彼は少しだけ嬉しそうな顔をして、その店を見ていた。また、彼に習うように風優も店に視線を移す。
黒い瓦屋根に、平たい宿のような店だった。桃色提灯が玄関左右に二つ並び、玄関戸の上には松風と書かれた木の装飾が施されている。
「ここじゃ! 松風の里」
「松風の里?」
「そう。風優、入るがいいかのう?」
風優はこくりと小さく頷いた。大丈夫、蒼守がくれた眼帯がある。
顔を人に見られても、へっちゃらだ。そう心に強く決め、つけていた眼帯をそっと抑えた。
フェーブにつれられられるように引き戸を開き、入った店。
人が十五人程入れる広々とした玄関は靴の脱ぐ所があり、その左右には大きな下駄箱が置かれている。
二人は下駄箱に脱いだ靴を入れて、さらに先へ進む。
「ねえ、フェーブ兄。ここは何のお店?」
「んー。子供が知るにはまだ早いかのぅ?」
にんまりと怪しい笑みを浮かべるフェーブに風優は口を尖らせた。
「俺だって、今年で十五だ!」
「ほえろほえろ、子供の戯言~!」
「フェーブ兄の馬鹿っ!」
風優が今にでも歌いだしそうなフェーブを怒るが、見えてきた廊下の薄暗さに黙り込む。
廊下は静まり返っている。何処となく、冷たさも感じた。左右は障子で閉め切られており、少しばかり居心地の悪さすら感じるのだ。
どれぐらいの距離をまっすぐ歩いただろうか。時間にしてみると、一分、いやそれ以下かもしれない。
ただ、居心地の悪さのせいか、時間はさらに長く感じた。
「フェーブ兄……」
「ん、ここじゃよ」
突き当りの障子をフェーブが迷いなく開いた。
すると、どうだろうか。先ほどの暗さはどこへやら。見えてきたのは淡い蝋燭の灯。そして、老人と男性だった。
二人は袴を着ており、二人の姿を見た瞬間、深々と頭を下げる。突然の事に理解できない風優は思わずフェーブの方に視線をやった。
「風優はあのおじいさんと一緒にいてくれんか? 少ししたら迎えに行く」
「え……何か難しい話でもするのか?」
「ああ、そうじゃな。少しだけじゃ」
少しだけ寂しそうに笑ったフェーブに、風優は小首をかしげた。
風優は颯爽と歩き出した老人を見て、彼の後についていけばいいのかと納得する。
「わかったよ。フェーブ兄」
「すまんの。用事が終わったら迎えに行く」
風優と老人が去った後の部屋。二つの足音が消えていったのを確認し、フェーブは目前の男性を見た。
その瞳は先ほど風優を見送ったものとは全く別物。冷たい刃物のようなものだった。
「北条殿、立花家から何を言われたか解らんが、わしにはあの子をやる事ができん。いくら積んだ?」
北条と呼ばれた男性はふっと小さく笑んだ。しかし、その笑みはどことなく歪んでおり、慌てて作ったものだと知れた。
「私は立花家の主人にお願いを申しただけです。養子の話を申請した結果、快く引き受けてくださったのは、立夏家の方です」
フェーブは目を少しだけ細くなる。
「それに、あなたも解っているはずだ。北大陸では今でも妖精と人間の戦争が続いていると。いずれは、この大陸にもやってくる。あの暴れている竜たちを鎮めるためには、立花の力が必要だ」
男性は感情を露わにし、歯をむき出しながら続ける。
「あの子が、世界を救うのです」
「……命を張ってか?」
フェーブの呆れたような言葉が、部屋中に響いた。
「馬鹿らしい。確かに立夏は封印を主とする一族だ。だが、それを一人に押し付けて良い問題ではない」
「しかし、このままでは……!」
なお、食いつこうとした男性めがけて、フェーブは札束を彼の顔面めがけて投げつけた。
面を食らった男の顔に、フェーブは冷笑一つ浮かべる。
「わしが彼を面倒見る事になった。そいつは返してやる。人の命は金では買えん」
「き、貴様……!」
「わしは兄貴じゃ。あいつの。面倒見るんは当たり前じゃ。お前らとは違う」
颯爽と立ち上がるフェーブ。男は苦虫をつぶしたような表情で、彼が出ていくのをずっと見ていた。
一方、廊下を出たフェーブは、大きなため息を一つ零す。
「風優、お前はどちらを選ぶんじゃろうか……」
それを応える者は誰もいなかった。
『フェーブ兄』終