『薫風』
※おまけ小説の二つは過去編です。





 風優はいつものように鉄格子の前にいた。包帯だらけで、横に伏せる女性。体が腐っていく病気。そっと鉄格子に手をやり、花街の賑やかさにため息を吐き出した。
 もう少しで届くのに、届かない。人々が彼女を見て眉を顰め去る。しかし、風優はずっとそこにいた。
 もう来ないでと拒絶され、物を投げられ。それでも、繋がりを亡くしたくないと、ここに来てしまう。
 ここを離れてしまえば、彼女が居なくなってしまう気がして、何度も足を運ぶ。けれども、彼女があれ以降声をかけてくる事はない。
 彼女の本当の名前だって知らない。
 ただ、花街で使われる物の名前だけ。小さくぽつりと彼女の名を呼ぶ。
 すると、包帯で巻かれた手がすっと鉄格子の方まで伸びてくる。
 風優ははっと我に返って、その手を握り返した。触れた体温に、体がぞわりと震える。
 唇を噛みしめて、その手を強く握る。冷たい鉄格子の冷たさを腕に感じながら、風優は必至で手に縋る。
 彼女の手は弱弱しくて、それでも暖かい。
 まだ生きている。

「今日は……晴れでしょうか」

 弱弱しく呟かれた声に風優はその手を強く握り返す。
 なぜなら、彼女の耳は腐り落ちてもうないから。強く握りしめられた手に何かを感じたのか、彼女は弱弱しく笑った。

「嘘つき……手がぬれました」

 優しい声。くすくすと喉から笑う声は何処か空気を吐き出すだけにも聞こえる。空は快晴。けれども……。

「違うんだ……違うんだ、桜楼」
「今日は雨なんですね……。手が濡れて、冷たい」
「晴れなんだよ……っ」

 言葉は通じない。代わりに手を力いっぱい握る。けれども、その手が強く握り返されることは無かった。
 やがて、見回りの花街医師がやってきて、風優は追い出される。

 それが、いつもだった。
 花街の医師は彼女を気味悪がった。ほとんど、死体と変わりないのだから。
 風優は悔しそうに、花街の閉め切られた鉄格子に拳を叩きつけた。
 悲しげに、吐き出されたため息を纏い、風優は帰路につく。

 その数日後、再び鉄格子前に行く風優。
 そこには彼女がいる。少しだけ安堵を漏らし、再び伸ばされた手を握る。
 彼女が一方的に話しかけてきて、風優は握る力の強弱で答える。

 ただ、この幸せが続けばいいのに、夏の風につぶやいた言葉は、どこへ消えたのか。



『薫風』終