『とある日常』



 障子から漏れる月光を浴びた煙管に火を灯す。鏡に映った忌々しい火傷の後に舌打ちを一つし、鏡を蹴り飛ばした。
 それは人から畏怖され、軽蔑されたしるしだ。しかし、そんな傷を何も思わない人物がいた。
 その人は俺が生まれた時から一緒に居る姉のような存在だった。刀の師でもあり、生まれた意味を教えてくれた大切な人だ。
 そっと、火傷で無くした片目に触れれば、今でも胸がチクリと痛む。その感情は、何なのかは解らない。







 かなり昔の話だ。
 俺と彼女は近くの楓林に来ていた。空は楓色に染まり、今日の知らせを烏が知らせていた。着流し一つを羽織り、俺は今日一つの決断を彼女に知らせた。

「え、剣の稽古を?」

 綺麗な白い絹のような髪を風で遊ばせながら、驚いた声をあげた。
 鳥に餌をあげ終えた彼女は、こちらに視線を移す。赤い綺麗な瞳はビー玉のようだった。
 それでいて、白い着物なんかを着るから、まるで神話に出てくる妖怪のように美しい。
 ただ、近所の人からは剣の振るいが強すぎるため、男だと思われている時もあると彼女は笑った。そんな冗談交じりに話す彼女の笑顔が好きだった。
彼女は赤く染まった楓の木を見上げてから、俺が座る苔が生えた岩へ近寄ってくる。村はずれの小さなこの林が彼女と俺の秘密基地のような場所だった。

「そうだ」
「稽古……風優がねぇ」

 彼女の言葉は何気なく俺に突き刺さる。
 たった七歳の子供が剣を握れるとは思っていないのだろう。二つのビー玉が俺を伺うように俺の目を覗きこんでくる。
 火傷をし、亡くした目を見られるのは嫌だった。見られないように顔をそらせば、彼女が残念そうに肩を落とすのが解った。
 そんな反応に俺はホゾを噛む。
 俺は彼女を信用していない訳ではないが、ただ、この赤くただれた皮膚が人目につくたのは嫌だった。
 たとえ、親でも、彼女でも。視線を落としていれば、彼女は故意に俺の額を小突いた。

「痛!」
「まあ、いいでしょう。よっこいしょ……さ、ついてきなさい」

 さっと、立ち上がり煤を払う素振りを見せる。彼女の白い髪が風と踊る。俺はその後姿に見とれていたが、「早くしなさーい」と声をかけられ我に返る。柔らかな微笑みを向けている彼女の後を追う。
 彼女が歩く枯れ葉に染まる路。俺は彼女から少し離れて歩く。獣が通った道を二人して歩く。
 そこには言葉なんてものはない。俺は小さいながらも、彼女の背を追いかけて進むのだ。

「風優、傷なんてものは醜いものじゃありませんよ。あなたのその痕は母親があなたを思った優しさなのですから。とっても、素晴らしいものだと思います」

 ぴたりと彼女が足を止め、微笑みながら言う。俺は思わず立ち止り、先を歩いていた彼女を凝視した。柔らかな木漏れ日が彼女を照らす。ああ、綺麗だなと思いつつ、彼女が微笑みながら差し出した手を掴もうとした刹那だった。目の前に亀裂が走り、彼女と風景が鏡のように砕け散った――。







 パキン、と物音がし、俺は夢から覚めた。ずいぶん長い間、昔の夢を見ていたようだ。
今の音は蹴り飛ばした鏡が少し遅れてひびが入った音らしい。俺は鏡を取り、割れた部分をなぞる。ちょうど、ひびが入ったところは俺が火傷した辺りだった。
 鏡をなぞれば、まるで、自分の傷を触れるような気持ちになる。火傷した皮膚は今でも他人に見られるのは嫌いだ。
 煙管の灰を落とし、俺はそれを専用の煙管置きに置いた。
 鏡を手に取り、火傷した部分に手を置く。なんてことはない。見慣れた自分の顔だ。違うのは少し眠たそうな顔をしている所だけ。
 もう一度夢を思い出そうと目をつぶるが、浮かぶのは真っ暗な闇。
 彼女を思い出すことはできなかった。
 会いに行こうか、と思ってもそれは叶わぬ願い。

 なぜならば、もう、彼女はこの世界にいない。