意識が回復した時、薄明かりの中で由理阿はソファに横たわっていた。自分がどこにいるのかさえわからなかった。長い眠りから覚めたような、けだるく寝疲れた気分で辺りを見回すと、目の前の床に転がっている沙羅の姿があった。
 どこか遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえる。それとも、薄れていく意識の中で聞いた泣き声が、耳に残っているのかもしれない。
 夢だったんだと信じたくても、首の痛みがその可能性を否定する。鏡の中の自分の首には、生々しい手の跡がくっきり残っていた。
 沙羅に駆け寄り、肩を揺さぶってみても、反応がない。
 一瞬まさかと思ったが、呼吸はしていた。
「沙羅、起きてよ! しっかりしてよ! 沙羅、大丈夫?」
 激しく体を揺さぶりながら声を掛け続けると、ようやくゆっくりと体が動いた。
 沙羅は、夢うつつの中で由理阿の声が聞こえた気がした。
「う、うん。あたしどうしたのかしら? どうして床に寝てるの?」
 まだ醒めきらぬ、ぼんやりした頭で記憶の糸をたぐっている。
「ちょっと沙羅、しっかりしてよ。すんでのところであたしを絞め殺すところだったんだから------」
 由理阿は思わず声を上げていた。
「えっ、そんなこと言われても、あたし何にも覚えてない。由理阿の言ってることがわかんないよ。本当に何も覚えてないんだから------」
 沙羅は同じ言葉を繰り返すだけだった。
 東の空が白み出していた。枕元の目覚まし時計は午前5時24分を指している。
「ケケケケケ------」
 蜩が鳴いている。
「由理阿、あたしそろそろ帰るよ。もう電車も走ってるし、あたし、今日大学行かなきゃなんないし------」
 そう言うと、何事もなかったかのように、さっさと帰り支度を始める。
「本当は、朝帰りなんてする気はなかったんだけど------、もう両親も慣れちゃってるから、まあいいけどね。でも、女の部屋からってのはね------」
 意味ありげな微笑みを浮かべると、さっと背を向けてドアを開けていた。
 一緒に外に出た由理阿は、廊下の手摺に手を付くと、階段を下りアパートから遠ざかっていく沙羅の姿が見えなくなるまで、目で追っていた。
 お互い口にこそしなかったが、人に話しても信じてもらえないような怖い体験をした二人は、共犯者同士に似た絆が生まれたことを自覚していた。
 沙羅が帰った後、由理阿は力なくベッドの縁に腰掛け、刻々と明るさを増していく東の空をぼんやりと眺めていた。

 由理阿は大学に着いた後も体中に気だるさを覚えたが、あんなことがあって眠れるどころじゃなかったんだからと、あまり気にしないように努めた。
 午後に美術解剖学の授業で沙羅を見かけたが、伏し目がちの軽い会釈でやりすごした。お互いあのことには触れたくないという暗黙の了解ができているようだ。口に出すことが恐ろしい結果を招くとでも言うかのように。
 四六時中、何をしていようと、口に出さないからなおさら、一瞬たりともあのことが由理阿の頭から離れることはなかった。
 自分がこの世に生を享ける以前に生死・流転を繰り返す中で、どこかであの女と出会っているのだろうか? 自分があの女と交わした約束って何なのだろう? 他の誰かと人違いされている可能性も否定できないけれど、もう一度あの女に会って、その正体と言葉の真意を突き止めたい。 
 沙羅が自分の首を絞めたのは、あの女の仕業としか考えられない。恨みつらみを抱いて死んでいった者のなせる業だろう。一時的にあの女が沙羅に憑依したに違いない。
 そのうちあの女は再び姿を現すだろう。その時、隠された真実が明らかにされるのかもしれない。

 由理阿は、放課後よく友達とお茶をするが、今日は寄り道もせずにまっすぐ帰ってきた。アパートの前に辿り着き、階段に足を掛け、一瞬迷った後、前の道路を渡った。
 もらい物だろうか? 古い家に似合わない、小鳥の巣箱風のメルヘンチックなデザインの白いドアチャイムを鳴らす。
 少し間を置いて、ゆっくりと戸が開いた。
「こんにちは。あの――、ちょっと聞きたいことがあるんですけど------」
「あっ、神垣さん、ちょうどよかったわ。後でお伺いしようと思ってたところ。末広さんのお父さんが、皆さんが病院に支払った治療費を置いて帰ったのよ。ちょっと多めのはずだけど、受け取ってください」
 前日と比べて、目の下の隈は薄くなったような気がするけれど、目の下や頬のたるみが目立つ中年女の顔には変わりない。
「ありがとうございます。それで、末広さんの家族か親戚の人が遺品整理と部屋の片付けに来てるんですか?」
「はあ?」
 少し間を置いてから、大家がおもむろに口を開いた。口元に刻まれた小皺が引っ張られる。
「------ちょっと、あなた、何を言ってるのよ。お父さんがいらっしゃっただけで、他には誰も来てませんよ。まあこっちとしては一日も早く遺品処理が済んで、部屋が空っぽになれば助かるんだけどねえ――。そうは言っても、自殺者が出た部屋が、そう簡単に埋まるもんじゃないし、人の噂が途絶えて、いつか何も知らないよそ者が借りるかもしれないけれど、ずっと先のことになるわよねえ――」
 そういい終わると、大家は意味ありげな含み笑いをしたが、由理阿はさして気にも留めず事実の確認を求める。
「じゃあ、あの部屋には誰もいないんですね?」
「そういうこと」
 由理阿は、言うべきか、それとも言わずにその場を後にすべきか悩んでいた。
「まだ何か?」
 そんな由理阿の様子を見て、大家が不審気に聞いてきた。
「あの――、昨日の晩、末広さんの部屋から足音や話し声が聞こえてきたんですけど------」      
 うつむき加減で消え入りそうな声で話しながら、こんな事を言うべきじゃなかったのかもしれないと後悔していた。
「そう言えば------、鹿嶋さんも今朝よく似た事を言ってたわ。末広さんの住んでた部屋の下に住んでる人。上の階で足音がしただけじゃなくて、自分の部屋でも目の前を黒い影がよぎったとかも言ってた------。末広さん、成仏できないで自分の住んでた部屋に戻ってきたのかしら------」
 ふと口に出してしまったことが恐ろしくなり口に手を当てた。
 驚いて顔を上げた由理阿の目の前で、目尻に皺が寄った顔が恐怖に歪んでいた。

 由理阿がいつもよりゆっくりドアを開け部屋に入ると、案の定何かが違っていた。それまで汗ばむほどの暑さだったのが嘘のように、室内はひんやりしていた。
 突然ぞくぞくっと寒気が走ったり、わけもなく鳥肌が立ったりする。エアコンを消し忘れたのかなと思ったが、ちゃんとオフになっていた。
 いつもなら部屋に入るなり、着ている服を脱ぎ捨てキャミソールに着替えるのに、とてもそんな気持ちにはなれない。足首をつかまれる直前に過ごした、深夜の数分間が脳裏に甦り、ぞくぞくっと身も凍るような不吉な予感が全身を駆け抜けていた。
 ベランダのカーテンを開ける際、緑の葉が視界の端を掠めた。昨夜、夕食後に沙羅に見せようと思っていたのに、それどころではなくなった。
 水さえやっていれば、初心者でも比較的育てやすいという売り文句に偽りはなかった。おとといから水をやっていないのに、葉も厚めのゴムの木なので、見た目には大丈夫そうだ。土にやる水とは別にハンドスプレーで植物全体に水をかけてやる。
 ベッドに倒れるように横になり、天井を見ながら考えを巡らせた。
 夜の帳が下りれば、あの女も闇に紛れて姿を現すかもしれない。その正体と交わした約束の内容を突き止めるためには、会わなくてはいけない。でも、会うことは危険を伴うから、もう会ってはいけない。二つの相反する気持ちが交錯する。
 そわそわと落ち着かない様子は、許されぬ恋に胸焦がれる乙女のようでもあった。

 結局、女の気配が感じられないまま床に就いた。日付が変わろうという時刻だった。
 突然何の前触れもなく、手術前の全身麻酔が意識を奪い去る瞬間のように、目の前の暗闇に吸い込まれていく感じがした。
 ふと我に返った時には、見知らぬ世界が目の前に展開していた。
 通りに立っているようなのに、辺り一面暗闇だ。それでも、目が慣れてくると、街灯の仄かな光の下、通り全体がぼんやりと浮かび上がってきた。何のことはない、駅前の慣れ親しんだバス通りだった。不安が和らぎ、ふっと息を吐いた。
 今まで気にも留めなかったのに、目を凝らしてよく見ると、街灯からちらちらと幾筋もの細い光の線が一斉に出ている。
 それにしても人っ子一人いないのはどういうことなのだろう?
 ただそれも草木も眠る丑三つ時だとしたら、何の不思議もない。あいにく腕時計も携帯電話も身に着けていないし、辺りを見回しても時計らしき物は見当たらない。
 この通りってこんなに暗かったのかなあと思いつつ恐る恐る歩き出す。しばらく進むうちにふとあることに気がつき、ぞくぞくっとするような戦慄が全身を駆け抜けた。世界全体がモノトーンなのだ。
 遠い昔の白黒映画の中に迷い込んだような、不思議な感覚に囚われながら、辺りを見回していると、死んだような静けさを破るかのように、何かが揺れる音が聞こえた。音のする方に視線を向ければ、のた打ち回る蛇さながらに、黒い太い電線が、風に揺られて変圧器を落とさんばかりに暴れまくっていた。
 顔をゆっくり下ろすと、前を濃い色の猫が歩いていた。そっと後ろから忍び寄ると、立ち止まって振り向いた。いつもなら逃げていく猫の後姿を追うだけなのに、この猫は違っていた。こちらを目を丸くして見つめている。頭を撫でてやると、手を出してきた。爪で引っ掻かれないように飛び退くと、何事もなかったかのように去って行く。どこへ向かっているのかなと思っているうちに、見失ってしまった。どうやら路地に入ったようだ。
 はっと気がついた時には、ベランダから部屋の中を覗いていた。見覚えのある部屋だなと思っていると、何のことはない、自分の部屋だった。
 次の瞬間、時計の秒針が後方でカチカチ音を立てていた。思わず振り返れば、枕元の目覚まし時計の蛍光塗料が塗られた針が、暗闇に浮かび上がっていた。午前2時49分を指している。
 部屋の様子はいつもと何ら変わったことはない。
 そう思ったのも束の間だった。
 ふとベッドの方に目をやった途端、すーっと血の気が引いていくのを感じた。
 人の膨らみがあった。こちらに背を向けて誰かがすやすや寝息を立てていた。
 一体誰があたしのベッドで寝てるんだろう?
 反対側に回り、顔を覗いて安堵の吐息を漏らした。この世に生を享けて以来、慣れ親しんできた顔だった。寝ているのは自分自身だった。

 由理阿は突然夢遊病者のようによろよろと起き上がり、トイレに入った。
 ベッドに戻り、再び眠りの淵に落ちながら、左側に寝返りを打った時、ガーゼケットからはみ出した右肩をひんやりした空気がすーっと掠めていった。
 次の瞬間、室内を満たしていた闇が、その濃さを増したようだ。
 どんなに目を凝らしても、もう何も見えない。ぞくぞくっと身も凍るようなおぞましい予感がした。
 ベッドの横にあるはずの壁は消えていた。ベッドの端から転げ落ちると、奈落の底にどこまでも落ちていくような感覚に襲われた。時間と空間の感覚が消え去ったようだ。