意識が回復した時には、夜が明けようとしていた。踏切の警告音に続いて、始発電車の通過音が聞こえた。背中に冷たく固い床の感触があった。
 夢だったのかな?
 よろよろと起き上がり、足下に目を落した瞬間、背筋に悪寒が走った。左足首にくっきりつかまれた跡が残っていたのだ。恐怖のあまりしばし呆然と立ち尽くした。
 気分が落ち着いてきたのは、ベッドに横になってしばらくしてからのことだった。ふと仕事が入っていることを思い出した。足首に付いた手形のことが気になってしかたがなかったけれど、仕事を休むことはしたくなかった。週末が中心で、週2~3回のペースで、学業と両立できて、結構いい収入になるバイトって、どこにでも転がっているわけではない。
 夜ゆっくり湯船に浸かって疲れを取るのを日課にしているのに、昨夜はそれができなかったばかりか、固い床に直接寝たので、体中が痛む。とりあえずシャワーを浴びることにした。体の汚れが取れ、緊張も解ければ、気分もすっきりするだろう。まだ気温がさほど
上昇していない早朝、冷ための湯の中で心身ともに洗い清められることを願った。
 今日は化粧品のサンプルを配るという単純作業だけれど、キャンペーン会場はファッションビル前のイベントスペースだ。まだ残暑が続く屋外で1日中立ちっぱなしは、人工の涼しさに慣れきった身体にこたえるだろうな。
 濡れた髪を真っ白いタオルで包み込み、冷蔵庫から取り出したばかりの冷えた西瓜にかぶりつきながら、そんなことを考えていると、気持ちもみるみる冷えていった。

 日曜日の朝だというのに、なぜか電車は思ったよりも混んでいた。
 吊革をつかみそこねてバランスを崩してしまい、後ろの人に寄り掛かってしまった。すると、耳の後ろで「ちっ」と舌打ちがした。振り向くと、小心そうな痩せた男が立っていた。
 これくらいのことで不快感を表すなんて正常じゃないよ! おまえ心が病んでるんじゃないのか? あたし、左足が正常じゃないんだよ! 杖をついてれば、もう少しは気を使ってくれるのかなあ? 
 心の中で叫びながら悔しさに唇を噛んだ。
 次の電車に乗り換えるのが憂鬱になったけれど、電車を降りる頃には、何とか気を取り直していた。
 あたしこんなことぐらいでめげちゃいられない。あいつの分まで生きてるんだから、思い出抱き締めて。でも、もうちょっと一緒にいたかったなあ。

 うちを出てから40分、集合場所になっている化粧品会社の営業所に到着した。キャンペーン会場まで車で10分という近距離だ。
 開けっぱなしのドアからさり気なく会議室を覗いてみると、自分を除く他のキャンギャルたちは着替えも済ませ、ミーティングを待っている様子だ。
 どうにか間に合った。安堵の溜め息を漏らした。
 でも、ゆっくりしているわけにはいかない。まず何はさて置き、着替えないことにはどうにもならない。女子社員更衣室へ急ぐ。
 今日のコスチュームは、スリット入りのピンクのミニスカートを除けば、Tシャツもルーズソックスもスニーカーも白だ。甘ロリっぽい色使いに惹かれて、蝿のようにたかる男たちが、ごくりと飲み込む生唾の音が、聞こえてきそうだ。
 左足首に付いた手形をルーズソックスの下に隠すことができ、ほっとした。スニーカーの紐を結んでいると、ふと誰かの視線を感じた。はっと顔を上げると、いつの間に入って来たのか、よく一緒に仕事をする杏菜と目が合った。清純な顔立ちにコスチュームがよく似合う。
「由理阿、ちょっと顔色悪いんじゃない? 大丈夫?」
 口先だけではなく、心配気に覗き込んでくる。
「うん、まあどうにかこうにか------」
「あのね------、おとといの夜、あたし由理阿の夢見たのよ。それが------、ちょっと言いにくいんだけど、由理阿がお腹を刺されて死んでた------。血塗れで地面に転がってて、流れ出た真っ赤な血が水溜りのように溜ってた------」
 まさか、そんなことって。同じ日に同じ夢って。
 由理阿は心の中で呟いた。
「------それで、由理阿の身に何か悪いことでも起こったんじゃないかって、ずっと気になってたんだけど、無事でよかった――」
 もう由理阿の耳には杏菜の声は聞こえていなかった。ぞくぞくっと血も凍るような衝撃が全身を突き抜けていた。
 脳裏には一昨日の夜の夢がまざまざとフラッシュバックし始めた。

 空は暗雲に閉ざされているのに、不思議と明るく、昼なのか夜なのかもわからない。
 野原の中の広い一本道を一人で歩いていた。誰か自分を待っていてくれる人がいるような気がしてならない。だから、急ごうとするのに、どういうわけか思うように早く歩けない。
 途中、鉄塔のコンクリートの土台みたいな物が幾つかあり、どのようにして登ったのかわからないけれど、知人・友人が足をぶらぶらさせながら、下を通り過ぎていく自分を笑顔で迎えてくれる。
 時間が飛んだように、幕も降りず暗転もないのに、急に場面は森に変わっていた。幾筋もの小道があり、それは迷路のように入り組んでいる。
 どこへも出られずこのまま彷徨い続けるのかな、と不安が増しつつあった時、神社の鳥居が視界に飛び込んできた。何ともいえない嫌な予感がしたけれど、次の瞬間には境内にいた。
 青白く生気のない顔をした男が、拝殿を背にしてじっとこちらの様子を覗っている。
 白衣、袴姿から判断して神主らしい。どことなく顔に見覚えがある。
 誰なのか思い出そうと記憶の糸をたぐり寄せているうちに、男は携帯していた小太刀をさっと抜いた。
 心臓が凍りつきそうな戦慄を覚え、思わず後退りしていた。
「あなた、神に仕える身でしょう。わたしに何をするというんですか?」
 声だけでなく、足もガタガタ震えている。
 男は無言で目と鼻の先まで迫ってきていた。
 怖くて怖くて一刻も早くその場から逃げ出したくても、足がすくんで一歩も動けない。
「お願い! 殺さないでください! お願い! 命だけは助けてください!」
 必死で命乞いしたのに、脇腹を一突きされた。
 いよいよ刺されるという時に、息を詰めて全身を固くしてこらえた。
 心臓が飛び出しそうなくらい激しく鼓動を刻んでいた。
 そのうち冷たい物がすーっと体の中に入ってきて、それがさっと抜けると同時に、生暖かい物が腹を押さえた指の間から流れ出て、そのまま足を伝って滴り落ちた。
 不思議と痛みは感じなかったけれど、刀が服を突き破り刺さってきた瞬間、真正面から襲ってくる死の恐怖に怯えながら、心の中で叫んでいた。
 あたしまだ死にたくないよ。まだやり残したことあるんだから------。

 目の前が暗くなっていくにつれ、意識も遠のいていたところでようやく我に返った。
 目の前に心配そうに覗き込む杏菜の顔があった。
「あたし、どうしたんだろう? 気を失ってたの?」
「良かった。ほんの数秒だけど、意識飛んでたみたい。でも、急がなきゃ。もうミーティング始まってるよ」
 杏菜にせかされ、駆け出す。
 杏菜と並んで会議室のドアの前に立つと、案の定、中からキャンペーン責任者の力のこもった声が聞こえてきた。サンプル配布時の注意点の最終確認が始まっているらしい。
 うつむき加減でドアを開け、最初に目に入った空いている席に静かに着席する。早くから来ていたのに、自分のせいで杏菜も決まり悪そうだ。
 先月も同じメンバーで同じ仕事をこなしているので、今回は事前研修がなかった。その分、理解度テストがいつもより念入りな気がしたけれど、新製品のサンプル配布では、商品をしっかりPRできる商品知識が必須だから仕方がない。

 イベントスペースには、秋の新製品やメーキャップを自由に楽しめるフリーテスティングコーナーも設けられていて、出だしから結構人が集まった。
 作業を開始してしばらくすると、由理阿は体に異常を感じた。容赦なく照りつける太陽とコンクリートからのぎらぎら眩しい照り返しの間に挟まれ、汗がだらだら出てもおかしくないのに、なぜかぞくっと寒気が走ったり、鳥肌が立ったりするのだ。
 こんな状態で今日1日乗り切れるのかな?
 そんな不安に押しつぶされそうになる。
「あの――、ちょっといいかなあ------?」
 追い撃ちを掛けるように、カメラを手にした男二人が近寄ってきた。外見を気に掛けないタイプで、恋人いない歴=年齢といったところだろうか。
「いいかなあ?」って何がいいのよ! あなたたち、そんな格好でここで何してんのよ!場違いでしょう! 非モテのオフ会じゃないのよ!
 そんな風に言い返してやりたかったのに、由理阿は心とは裏腹に笑顔を返してしまった。
 思わぬところでキャンギャルの職業意識が出てしまった。いつも愛敬を振り撒くように言われているから。
 メンズがファッションビルの2フロアを占めていて、結構人気のあるブランドも入っているからか、男性客も多いようだ。
 あれよあれよという間に、被写体と化したキャンギャルたちは、逃げ場を失くし、男たちのいやらしい視線の集中攻撃を浴びていた。
 多勢に無勢。キャンペーン責任者も為す術なく、路上サンプリング転じて路上撮影会だ。
 アキバホコ天の路上撮影会って、こんな感じだったのだろうか?
 地面すれすれにビデオを差し出すローアングラーも出てきた。
 撮られたミニスカートの中味の写真や動画がどう使われるのか考えるだけで、背筋が凍るほどにおぞましい。それはいつかチャンスがあれば、グラドルになってみたいという気はある。でも、手ブラなんかしたくないし、まさかM字開脚なんて考えられない。そもそも、Cカップじゃちょっと難しいかな?
 ところで、これって迷惑行為防止条例違反じゃないのかなあ? どこからともなく警官が現れて現行犯逮捕してくれないかなあ?
 由理阿がいろいろ思いを馳せているうちに、今度は、アニメの下敷きを団扇代わりに使っている男が近づいてきた。
 まさかミニスカートの下から扇ぐんじゃ------。いや、それよりも顔・首・腕なんかを下敷きでサーッとやられたらどうしよう? 切れちゃう。血がパーッと流れ出たりして。
 自分でもそれがどこから来るのかわからないけれど、物心がついた頃から、先の尖った物や薄い物を目にすると、言いようのない恐怖に襲われる。一種のトラウマだろう。
「ちょっと、その左足の膝下の傷って骨折の手術跡?」
 驚いた由理阿が顔を上げると、男は下敷きで指していた。
 えっ、どうして? うっすらとしか残ってなくて、目立たないのに。
 ずっとひた隠しにしてきた過去を覗かれた思いで、由理阿は心の動揺が隠せなかった。
 その後は、他のキャンギャルたちが、全身汗まみれになりながら日焼けしていく中で、由理阿だけ言いようのない寒さに震えていた。どんなに表面を焼かれようと、体の芯に巣くう、絶対的な冷たさから救われることはなかった。