「あばあちゃん、由理阿はどうしたのかしらねえ。今日、おばあちゃんのお見舞いを兼ねて、友だち連れて帰って来ることになってたでしょう? 11時ごろには着くって言ってたのに、まさか忘れたってことはないでしょうね」
 昼ご飯の支度の手を休めて、心配そうに壁時計に目をやる。
 11時49分を指している。
「忘れてしまったのかもしんないよ。この間電話あった時も、どこに喪服を仕舞ったか思い出せないとか言ってなかったっけ」
 そう言うと、皺が深く刻まれた手で湯呑みをテーブルに置いた。
「そうだったわ。あの子ったら、まったく------」
「ねえ、空耳かもしんないけれど、2階で物音しないかい? 由理阿の部屋かもしんない」
「もう、おばあちゃんったら、何言ってるのよ。2階には誰もいないのよ」
  
 あれっ、夢か。そう言えば、今日は由理阿の帰省に付いてくことになってたんだ。でも、まだそんな時間じゃないはずだけど------。
 心の中で呟きながら、沙羅が眠そうな目で枕元の携帯電話を見ると、午前6時49分を示していた。
 昨夜はいつまで待っても由理阿から連絡がなく、心配になった沙羅のほうから由理阿の携帯電話に何度か掛けてみたが、応答がなかった。その後、携帯メールも送ったのに、日付が変わっても返事は来ていない。
 由理阿の身に何か起こったのかもしれない。こうなったら、アパートに行ってみるしかない。

 由理阿のアパートに近づくと、路上駐車の車が3台視界に入ってきた。そのうち1台はパトカーだ。
 やっぱ由理阿の身に何かあったのかもしれない。
 沙羅は嫌な胸騒ぎがした。
 刑事ドラマに出てくるような刑事や鑑識官が数人2階の部屋を出て、バタバタと階段を下りてくるところに出くわした。階段の脇には、目の下や頬のたるみが目立つ中年女が立っている。刑事の一人が彼女に一言二言話し掛けている間に、他の男たちは次々に警察車両に乗り込んでいく。
 全車が発進したところを見計らって、沙羅は大家らしき中年女に駆け寄る。
「あの------あたし神垣さんの大学の友だちなんですけど、もしかして彼女に何かあったんですか? 昨日の夜から何度か携帯に掛けても、全然繋がんないし------今日、彼女の実家に一緒に行くことになってたので、心配になって来てみたんですよ」
「------見ての通り、警察の現場検証が終わったところなんです。あのね------自殺だったんですって。実は、実家のお母さんから今朝8時ごろ電話いただいたのよ。昨日の夜から娘さんの携帯に何度掛けても、繋がらないから、心配されてたのよ。あなたと同じよね。たまには大学のコンパに行ったり、友だちと出かけることもあるだろうからって、昨夜はそんなに心配されてなかったらしいんだけれど、朝になっても連絡つかないって、本当に心配されてるような口振りだった。あなたも知ってると思うけれど、神垣さんって、外見は派手目だけれど、外泊するような人じゃなかったから------それで、彼女の部屋のドアを何度ノックしても返事がないから、中に入ってみたら------」
 胸のうちに溜め込んでいたものを吐き出せる相手が現れるのを待っていたかのように、一気にまくし立てた。
 沙羅は、死んだ人間が生き返るはずもないのに、必死に訴え掛ける。
「すみません。ちょっと待ってください。神垣さんが自殺するはずがないんです。今日は実家に帰ることになってたんです。自殺なんて、きっと何かの間違いです」
「------それがね、カッターナイフで手首を切ったらしいのよ。警察の話じゃ、本人以外の指紋や遺留品も発見されなかったんですって------今し方、実家に連絡したんだけれど、日曜日ってこともあって、これから御家族でいらっしゃるらしいのよ。昼過ぎには着くっておっしゃってたわ。こんなことになってしまって、わたしどうしよう------」
「あの------それで神垣さんの遺体は?」
 さり気なく聞く。目を合わせないようにうつむいている。
「------部屋のベッドで血に塗れてるわ。わたしが部屋に入った時、最初に目に飛び込んできたのが、それこそ、真っ赤な血に染まったシーツだったのよ。葬式で最後のお別れの時、顔見れるから、今は見ないほうがいいわよ。それに、昨日亡くなられたばかりなのに、物凄い死臭が漂ってるわよ。それともう一つ気になったのは、枯れた観葉植物。ベランダ近くに置かれてたんだけれど、随分前から水やってなかったのかしら? 何だかそこからも臭ってるようで------それじゃ、ちょっと失礼します。わたし、御遺族が到着される前に、ちょっとしとかなきゃならないことがあるし------」
 小走りに駆けていく女の後姿が、不意に歪んだ。
 今まで張り詰めていた緊張の糸が切れ、沙羅の目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。
 こんな馬鹿なことって------由理阿が自殺するわけがないよ! 
 由理阿が恐れていたことが現実になったんだ! 由理阿の悪夢が現実化したんだ!腹を刺される代わりに手首を切られたんだ------。
 誰にもわかってもらえない悲しみと悔しさをどこにぶつければいいのか?
 やり場のない思いに、沙羅は思わず唇を噛み締めていた。

 敷居をまたぎ中に入り、戸を閉めるやいなや、大家は独り言のように呟いた。
「こうなったら、またしばらく空き部屋のままか------『人の噂も七十五日』って言うし、また何も知らないよそ者が入るのを待つしかない。それにしても、同じ週に隣同士の部屋で自殺者が出るなんて、偶然にしてはでき過ぎてるわ。その上、同じ部屋で左手首をカッターナイフで切って死ぬなんて------、何から何まで2年前と同じで、気味が悪いったらありゃしない。やっぱりうちのアパート呪われてるのかしら?」

「由理阿、明日から駅前近くの交差点の辺りで、道路の拡張工事が始まるって知ってた? そのうち、電柱の位置をずらすんじゃないのかな? よくわかんないけど、周辺を停電にして、電線と電話線を張り直すんじゃないのかな? そうなったら、霊道が移動することは間違いない」
 もう二度と聞けないと思っていた、あの声が由理阿の耳に心地よく響いてきた。
「そう言われてみれば、確かに『道路工事に伴う停電のお知らせ』とかいうの見た覚えがあるけど、霊道って移動するものなんだ。一度開いたら、ずっとそこにあるものだとばかり思ってた」
 由理阿は目を丸くしている。
「電気工事とか建設工事があると、移動するもんなんだ。それでさあ、霊道が移動して、また由理阿と連絡が途絶える前に、いっそのこと連れていきたくなって------他の二人に協力して、由理阿を------」
 由理阿と目を合わせないように視線を伏せ、ぼそぼそ話す。
「えっ、やっぱあたしって、もう死んじゃってるの? 他の二人って、石村千代子とリストカッターのことだよね。でもね、龍、そう簡単に元恋人を殺していいと思ってたの? 信じらんないよ。あたしにだって、都合ってものがあるんだよ。死ぬ前にしておきたいことだってあったのに------ちょっと急過ぎたなあ」
 龍平はすまなそうな目で、そっと由理阿の顔を覗き込む。由理阿はキュッと唇を噛んでうつむいていた。
「------ごめん。由理阿が俺のこといつまでも引きずってて、つらそうだったから、一思いにやっちゃった------」
 一瞬、沈黙が流れる。
「------ま、いっか。許してあげる。今死んでなかったとしても、どうせ前世で犯した罪を償うために、死ななきゃなんないことになってたみたいだし------」
 由理阿の顔に安らかな微笑みが浮かんでいる。
「------由理阿、『前世で犯した罪』って何のこと?」
 龍平は不思議そうに聞く。
「龍、それって結構長い話になるから、また別の機会にゆっくり話させて。あたしたちこれからも長い付き合いになるんだし------」
 由理阿はいたずらっぽく笑った。
「ったくお前って奴は------じゃあ、、取りあえずちょっと街に繰り出すか。いつまた戻ってこれるかわかんないし------」
 龍平はそう言って由理阿の手を引く。
 二人は地面の上をすーっと滑るように移動し始める。