アイボリーのレースのカーテンを突き抜けて来る陽光が眩しい。
 新しい一日が始まっていた。
 たとえすがすがしい空気ではないにしろ、換気は必要だ。
 由理阿はベランダのサッシ戸を開ける。
 予想に反して、入ってきたのは生暖かい風だけではなかった。今まで嗅いだことのないような異臭が漂ってきた。
 誰か回収日を間違えて生ごみを出したのかなあ? それにしても、ごみの収集場所からここまで臭ってくるかなあ?
 ふとそんなことを思いながらサッシ戸を閉め掛けて、はっと息を飲んだ。
「ちょっと、これ何よ! 誰がこんなことを------」
 一見悪質ないたずらに見えたが、それが臭いの元だと気づいた時、言いようのない恐怖が全身に染み込んでいく。
 これって、まさか------。
 全身から血の気がすーっと引いていく。
 由理阿はよろよろとドアに向かう。階段を転げるように下り、脱け殻のようにアパート前の道路を渡った。
 瞼の裏におぞましい残像がちらちらと揺れていた。
 ドアチャイムを鳴らす。しばし待っても返事がない。
 留守なのかもしれない。どうしよう?
 そんな不安に駆られた時、僅かに開いた戸から顔を覗かせた大家は、幽霊を見るようにわなないた。
「あっ、神垣さん、一体どうしたんですか?」
「------わたしの部屋のベランダの床に------」
 由理阿はそれだけ言うと膝から崩れ落ち、地面に手を付いて小刻みに震えていた。
「ちょっとしっかりしてよ。ベランダの床がどうかしたの? とりあえず、見せてくださいな。見てみないことには何が何だかわからないから------」
 大家の後姿を追いながら、階段の手摺を掴み一歩一歩足を持ち上げる。
 二度とあんな物は見たくないという気持ちと、何が起こったのか知らなければならないという気持ちが葛藤していた。
「それじゃ、上がらせてもらうわよ」
 大家はそう言って部屋に入ったと思ったら、すぐに放心したような表情を浮かべて出てきた。
「------こんなことって------信じられない。これじゃ2年前と同じじゃない」
 うめくように呟きながら、怪訝な顔をした由理阿の前を通り過ぎていく。
「あの――、大丈夫ですか? 2年前って、2年前に何かあったんですか?」
 その質問に反応して、機械仕掛けのように大家の首が大きく振れた。恐怖に見開かれた瞳には、困惑した由理阿の顔が映っていた。
 不意にあの警官の顔が由理阿の脳裏を掠めた。他に助けを求められるような人はいなかった。

「安曇野駅前交番です」
 受話器の向こうから極めて事務的な声が聞こえてきた。
「あの――、矢吹巡査部長をお願いします」
「はい、わたしですが」
 いつもの明るい声に変わった。
「あの、神垣ですが------」
「えっ?」
「------この間、踏切事件の時、お世話になった神垣ですが」
「あっ、あの神垣さん。失礼しました。それで、何か?」
「------今すぐ来てください。お願いします。わたしの部屋のベランダの床に------」
「ちょっと待ってください。何があったんですか?」
「------それは来てもらえば------」
「わかります」ってことか?
 よほどのことがない限り交番に電話してくることもないだろう。
 巡査部長は受話器を置くなり、直ちに現場出動準備に取り掛かった。

 朝遅くまで寝ていたいから遮光カーテンを買ったのに、レールの隙間から眩しい朝の光が漏れている。
 末広が覚醒した時には、もう一つの夏日が始まっていた。
「------またうだるような一日になるのか。乗り切れるかな?」
 そんな独り言を漏らすと、外気の温度を確かめるかのように、ベランダのサッシ戸を開けていた。
 いつもならむっとする熱風が顔に吹き付けてくるのだが、鼻を突く臭気に慌ててサッシ戸を閉めなおした。
 何だったんだ、今のは? ベランダの外で何か腐ってんのかな?
 鳥・猫・ねずみの腐乱死体が、次々に脳裏に浮かんでは消えていった。
 だが、サッシ戸越しに覗いてみても、外には何もないようだ。
 それじゃ、一体異臭はどこから来るのだろう?
 気にはなったが、その日は、そのうち悪臭の発生源が特定されれば、問題も解決されるだろうぐらいにしか考えていなかった。
 ところが、その日を境にして、臭気は日を追うごとに強さを増していくばかりだった。
「もしかしたら、これってここだけの問題だったりして。こうなったら、自分で解決するしかないんだろうな」
 末広はそう呟くと、ベランダに立った。
 公休日の午後だった。
 ベランダの床から立ち昇る陽炎の中で、踏切や駅前商店街がゆらゆら揺れている。じっと眺めていると、景色が空気の流れの中で作られた幻影のようにも見えてくる。
 こんな無風状態では、臭気が遠くから風に乗って運ばれてきているということはありえない。隣のベランダで何かが腐っている可能性が高い。ただ、それを確認しようにも、隣との仕切り板がそれを阻む。
 こんな薄っぺらい木の板1枚なのに、どうにもならない。こういう時は、やっぱ大家に言うしかないのかな?
 直接隣に掛け合うことはためらわれた。姿を見せることも稀な隣人で、挨拶を交わした記憶もなかったから。

「末広さん、あなた今までよく我慢してたわよねえ。わたしだったら、もっと前から大騒してたわ。この臭いってこの世のものとは思えないもの。隣から来てることは間違いなさそうね」
 大家はタオルで鼻を押さえながら末広のベランダに立っていた。喉の奥にすっぱい感覚が走ってきて、慌てて部屋に逃げ込んだ。
 隣のドアを何度かノックしても返事がないので、大家はいつになく神妙な面もちでドアの鍵穴に合鍵を差し込む。
 開いたドアから凄まじい臭気が溢れ出た。
 タオルで鼻を押さえたまま、大家は末広を伴い恐る恐る部屋に足を踏み入れる。
「こんにちは。氷室さんいますか?」
 やはり返事はない。
 誰もいない部屋に、腐敗臭を含んだおぞましい空気が淀んでいた。 
 ここにいてはいけない。一刻も早く出たほうがいい。
 そう本能が知らせている。
 だが、少なくとも異臭の元を突き止めないことには、逃げ出すわけにもいかない。
 込み上げてくる嘔吐感に耐えながら、部屋の中を見て回る。家宅捜索をしている刑事の気分になってきた。
 若い女の部屋にしては随分殺風景だ。壁にはポスター1枚も貼られていない。生活臭もしない。キッチンの流しやレンジ周りを見ても、最近、料理が作られた形跡がない。
 ベランダ近くにベッドが置かれていた。濃厚な赤ワインをぶちまけたように、シーツ一面に赤黒い染みが付いている。
 ベッド横に、手彫りらしき装飾が施されたアンティーク調の鏡台があった。口紅やらネールカラーやら散らかった化粧道具の下にも、所々黒く変色した跡が見えている。 
 素人目にもすべて血が変色したものらしいことがわかる。
 大家と末広はベッドと鏡台に視点の定まらない視線を泳がせながら、呆然とした表情で立ち尽くしていた。言葉にしなくても、お互いの恐怖が伝わってくる。       
 この部屋の住人の身に何があったというのだろうか? そして、どこへ行ってしまったのだろう?
 そんな疑問を胸に、部屋を横切りベランダに近づいた二人は、その場で凍り付いた。
 開いたままになっていたサッシ戸の向こうでは、 想像もできなかった光景が展開されていた。
 一面黒ずんだ物で覆われたベランダの床に、灼熱の太陽にじりじり炙られながら、横たわっている物があった。
 次の瞬間、すっぱいものが込み上げてきた。二人は我先と部屋を飛び出した。

 大家の110番通報を受けて最初に現場に駆けつけたのは、矢吹だった。管轄の警察署の上司から無線で「現場に急行せよ!」との指令を受けたのだ。アパートから最も近い交番に勤務していたのだから当然だ。
 通報の内容から判断して、警官一人で対応できる事件ではないため、署から刑事と鑑識が到着するまで、現場にて待機するようにとの指示があった。差し当たっての仕事は、アパートの部屋を立ち入り禁止とすることだけだった。
 ほどなく署の人間が到着すると、炎天下のベランダで作業が開始された。
「うっ、こんなことも本当にあるんっすね。うっ、小説や映画の中だけじゃないんっすね」
 矢吹は込み上げてくる嘔吐感に、口元を押さえるのに必死だ。臭いが目に見えるはずもないのに、辺りの空気が黄土色に濁っているように感じられる。
「矢吹、ごちゃごちゃ言ってるんじゃねえ。長い間警官やってりゃ、たまにはこういうこともあるんだ」
 突き放すように吐き捨てた刑事の胃も、喉の奥からせり上がってきている。後輩の手前必死にこらえるしかない。
「うっ、すみません------」
 すっぱいものが込み上げてきた。
「矢吹、しょうがねえなあ。そこまで気分が悪いんじゃ、使い物になんねえなあ。ちょっと中で休んでろ」
 ぶっきらぼうな言い方にも思いやりが感じられる。
 ベランダに横たわっていたのは、この部屋で暮らしていた女子大生だった。
 左手首には、どす黒く変色した血がこびり付き、右手近くの床には、カッターナイフが落ちていた。
 死体から流れ出した腐肉汁が、死体の下に溜まっていた血と混ざり合い、この世のものとは思えない、物凄い臭気を放っていた。死後数日後には、おびただしい数のウジのえさになっていただろう死体も、時間の経過とともに、乾燥して固くなっていた。
 死因は失血死と断定された。
 左手首には無数の傷跡があり、リストカットと言われる自傷行為を繰り返していたらしい。だが、常時、腕時計やリストバンドで傷口を隠していたらしく、誰も気づく者はなかったらしい。近所付き合いもなければ、訪ねてくる人もなく、死後推定1週間まで死体の発見が遅れたわけだ。
 外部から何者かが侵入した形跡はなく、死亡者本人以外の指紋も検出されず、他殺の可能性は否定された。
 自殺の可能性も考慮されたが、普通リストカッターは孤独感や淋しさを紛らすために静脈を切るものだ。衝動的に自殺を図ったということも考えられるが、自殺の意志がないのに、誤って動脈を切断してしまったというのが大方の見方だ。
 遺書は発見されなかった。その上、パソコンに接続された携帯電話が充電中になっていた。死を決意した人間が携帯電話を充電するだろうか? 
 事故にしろ自殺にしろ、事件性は認められないという理由から、これでこの件は幕が下ろされることとなった。

 矢吹巡査部長はベランダのサッシ戸を開けた途端、危うく気を失いそうになった。
 目の前の床一面に広がる、絵の具を撒き散らしたような異様な模様と、そこから立ち昇る、この世のものとは思えない異臭に、眩暈と嘔吐感に襲われたことは言うまでもない。
 だが、それだけではなかった。2年前のあの日の記憶が甦ってきたのだ。鼻と口を押さえたハンカチを通して、凄まじい臭気が鼻腔に侵入してきた時の衝撃と、おぞましい液体の上に横たわる異形の姿が、視界に入ってきた時の恐怖を追体験していた。
 矢吹は膝から崩れ落ち、床に手を付いて小刻みに震えていた。その横に駆け寄り、すばやくサッシ戸を閉めた由理阿も、よろよろと後退りし、その場にへたりこんでしまった。

 事件は信じられないような展開を見せた。管轄の警察署から刑事と鑑識が到着した時には、赤黒く変色した、おびただしい量の血は、すべて跡形もなく消え去っていたのだ。
 説明を求められても、返す言葉が見つからない矢吹と由理阿は、表情も硬く、終始うつむきがちだった。
 署の人間たちにしてみれば、狐に摘まれたような気持ちで、納得がいくはずもなかったが、かといって矢吹と由理阿が作り話をしているとは考えなかった。実直で勤務態度もよく、地域住民の信頼を得ている矢吹が嘘をつくはずもない。その上、大家からも同様の目撃証言が得られている。結局、わけのわからないままその場を後にするしかなかった。