翌日の午後、その日の講義が終わり、正門に向かって歩いていた由理阿は、行き交う学生の群れの中に見え隠れする沙羅の姿を、目ざとく見つけた。
 珍しく一人でベンチにぽつんと座っていた。
 そっと近づき、声を掛ける。
「沙羅、何してるのよ、珍しくこんな時間にこんな所で?」
「あっ、由理阿、ここに座りなよ------」
 そう言い掛けた沙羅の顔色が変わった。
「由理阿こそどうしたのよ? すっごく顔色悪いよ」
「わかってる------。昨日、龍に会ったから------」
 由理阿はさりげなく言う。
「えっ、龍って死んだ彼氏?」
 沙羅は戸惑いを隠せず心なしか声が上ずっている。
「そう、昨日あたしの部屋に来てくれた------」
「由理阿、正気なの?」
「うん、久々にベッドで抱き合えてうれしかった------」
「由理阿、そんなことしてたら、あの世に連れてかれるんじゃない?」
「それでもいいの、あたしは」
「そんな。由理阿、やっぱもうあのアパート出たほうがいいよ。あのアパートって呪われてるよ。あそこに住んでるのってどう考えてもやばいって。あたし本気で由理阿のこと思って言ってるんだからね」
 沙羅の口調がいつになく厳しく感じられる。
「沙羅、心配してくれてありがとう。でもね、沙羅の言ってた、あたしが消去してしまいたい体験のことやっとわかったよ。あの女の名前までわかったんだから。石村千代子って言うんだ。あそこに住んでれば、あの女のことももっとわかって、そのうち、あの女との因縁も解消できるかもしれない。とにかく、今あそこを出たら、このままいつまでも因縁引きずってくことになるような気がするの。だから、沙羅の言ってることはわかるけど、引越しはもうちょっと先ね」
 興奮気味の由理阿は一気にまくし立てた。
「ちょっと、由理阿の言ってることぜんぜんわかんないんだけど。あの女って一体誰のこと言ってるのよ?」
「沙羅こそ何言ってるのよ? 四日前だったかなあ? 沙羅がうちに泊まってったあの夜、現れた女よ。沙羅も見たじゃない」
「えっ、そんな。あたし女なんて見てないよ。あの夜あたしが見たのは、子どもと赤ん坊だけだよ」
「えっ、ということは、二人は違う霊を見てたってこと、同じ部屋にいながら?」
 二人は恐怖に引きつったお互いの顔を見合わせた。

 二人の脳裏にはあの夜のシーンがまざまざとフラッシュバックしていった。
 由理阿は部屋を横切る白い着物姿の女を見ていた。
 その時、沙羅の目の前には男の子と赤子がいた。
 継ぎあてズボンに染みだらけのランニング一丁の男の子は、背丈から判断して就学年齢前後だろう。血の気がなく真っ青な顔はうつむいていて、その表情をうかがい知ることはできない。菰に包まれた赤子の方も、うつぶせで床に這いつくばっている。
 不意に男の子の体が部屋の端から端へすーっと動いた。歩いたというよりも床の少し上を滑ったような感じだ。続いて、赤子も床すれすれの空間を移動した。
 沙羅の背筋にぞくぞくっと悪寒が走った。

「やっぱ、あたし男の子と赤ん坊見ただけで、女なんて見てない」
「あの夜、あたしの部屋には3体の霊が行き交ってたんだ------もしかして、その男の子って、ランニング姿で7歳くらいじゃない?」
「えっ、どうして知ってるの? 由理阿は女しか見なかったんじゃないの?」
 沙羅は驚きの表情を浮かべた。
「-----実は、その男の子、石村正雄って言うんだけど、もう3回見てるんだ。実際に見たのは1回だけなんだけど、後の2回は夢か幻覚かよくわかんないんだ。赤ん坊は知らないよ」
「ところで、話変わるんだけどさあ、由理阿、隣の六地蔵で降りたことある? 各停しか止まんないし、あたしほとんど降りることもないんだけど、昨日たまたま行く用事があっ たんだ。それでさあ、由理阿、駅からちょっと行った所に『遠りゃんせ』のメロディーが流れる信号機があるって知ってた? 今時珍しいよねえ。由理阿も行ってみなよ。駅の北口を出て、左に行って一つ目の信号だから」
 沙羅がどうしてそんなたわいもない話をするのか、由理阿は苛立ちを覚えた。
 あたし今それどころじゃないってこと知ってるくせに------あたしのこと本気で心配してるって言っときながら------。
 喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「------由理阿、あたし今日はもう行かなきゃ」
 沙羅が思い出したように言う。
「明日もちょっと忙しいけど、あさっての日曜日はちゃんと空けてあるからね。おばあちゃんのお見舞いがてらに帰省する由理阿に、付いてくことになってたよねえ?」
「あっ、忘れてなかったんだ――」
「本当のこと言うとね、由理阿の家族に会うのちょっと楽しみなんだ」
 沙羅の顔に微笑みが戻った。
「そんなたいした家族じゃないけどね。じゃ、明日の夜、携帯に掛けるから、そん時、待ち合わせ場所と時間決めよ」
「じゃ」
 二人は名残惜しそうな表情で手を振った。